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カール・デントン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジェームズ・カーライル・”カール”・デントン1874年11月21日 - 1955年11月14日)は、イギリス生まれのアメリカ人指揮者オレゴン交響楽団(当時はポートランド交響楽団)の初代音楽監督として知られる。

生涯

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イングランドヨークシャーバットレーにてジェームズ・カール・デントン、アグネス・デントン(旧姓スミス)夫妻の子として生まれた。6歳でピアノを始め、後にオルガンとバイオリンの訓練も始めた。国勢調査の記録によれば、デイトンがアメリカ合衆国に移住したのは1885年とある。しかし、彼は王立音楽院に入学しているので、その後再びイングランドに3年間は帰国していることになる。王立音楽院ではメダリストとなった。その後、コヴェント・ガーデンのオーケストラに参画し、グランヴィル・バントックエドワード・エルガーサミュエル・コールリッジ=テイラーチャールズ・ヒューバート・パリーといった指揮者兼作曲家のために演奏した。

その後、デントンはオレゴン州ポートランドのトリニティ・エピスコパル・チャーチのオルガニストとして招待され、1901年から1910年まで活動した。1910年に同職を辞すると、聖ステパノ聖公会聖堂(St. Stephens's Episcopal Pro-Cathedral)でオルガニスト及び聖歌隊指揮者を45年間に亘って務めた。当時、デントンはオルガンの巨匠として知られていた。また、リンカーン高校などポートランド市内のいくつかの学校でオーケストラと音楽理論も教えていた。また彼は王立音楽院のポートランド代表も務めていた。

1910年、デントンはポートランド交響協会の設立を支援。1911年には同オーケストラの4人の巡回指揮者の内の1人に選ばれた。デントンは1911年12月17日、シーズン2回目のコンサートを新しく完成したばかりのハイリグ・シアターで指揮を振った。1918年8月18日、オーケストラの理事会はデントンをポートランド交響楽団の初代常任指揮者に指名。候補者3人の中からの選抜であった。音楽監督に抜擢されたデントンは、東部に新しい楽譜や音楽を求め旅行をした。また、サンフランシスコロサンゼルスなどで14回の公演に参加した。彼が辞表を提出したのは1925年1月17日であり、1925年5月20日に最終公演がミュニシパル・オーディトリアムで行われた。この公演では、サミュエル・コールリッジ=テイラーのカンタータ『古い日本の物語』が演奏された。彼の希望により、デントンは自らの収入源の大半となっていたポートランド交響聖歌隊の指揮者のポストには留任し続けた。

次代の音楽監督はセオドア・スピアリングである。彼はデントンが提案した3人の巡回指揮者の内の1人であった。なお、スピアリングが実際に指揮を振るったのは、彼が死去する直前のわずかの期間であった。

私生活

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妻に、1909年7月14日に結婚したアイリーン・W・デントン(旧姓ウェッバー)がいた。彼女が1953年9月7日に没した後、デントンはワシントン州シアトルに移住し、息子のジェームズ・C・デントンと共に暮らした。

出典

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  • British Census, 1881.
  • Capitol's Who's Who for Oregon, A Triennial Reference Work 1942-1944. Portland, Capitol Publishing Co.
  • Capitol's Who's Who for Oregon, 1948-1949. Portland, Capitol Publishing Co.
  • Capitol's Who's Who for Oregon July 1953 Issue. Portland, Capitol Publishing Co.
  • United States Census.
  • United States Census.
  • “Appointment of Carl Denton”. The Oregonian August 20, 1918, page 9.
  • “Carl Denton; This Evening’s Conductor”. Portland Symphony Orchestra Program. April 8, 1925.
  • “Resignation of Carl Denton”. The Oregonian February 13, 1925, page 6.
  • Obituaries for Carl Denton. Oregon Journal, November 22, 1955, page 6; and The Oregonian, November 22, 1955, page 23.