ガイウス・リウィウス・サリナトル
ガイウス・リウィウス・サリナトル C. Livius M. f. M. n. Salinator | |
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出生 | 紀元前234年 |
死没 | 紀元前170年 |
出身階級 | ノビレス(プレプス) |
氏族 | リウィウス氏族 |
官職 |
按察官(紀元前204年) 法務官(紀元前202年) 執政官(紀元前188年) |
指揮した戦争 |
第二次ポエニ戦争 第二次マケドニア戦争 ローマ・シリア戦争 ローマ・ガリア戦争 |
ガイウス・リウィウス・サリナトル(ラテン語: Gaius Livius Salinator、紀元前234年 - 紀元前170年)は、紀元前3世紀終わりから紀元前2世紀初頭の、共和政ローマの政務官。紀元前188年に執政官(コンスル)を務めた。
出自
[編集]プレプス(平民)であるリウィウス氏族の出身である。リウィウス氏族はラティウムに起源を持ち、紀元前338年以降にノビレス(新貴族)としてローマの政治に登場してくる。紀元前324年にマルクス・リウィウス・デンテルが独裁官ルキウス・パピリウス・クルソルのマギステル・エクィトゥム(騎兵長官・独裁官副官)を務めており、その軍事的能力を評価された。同名の息子マルクス・リウィウス・デンテルが、紀元前302年に氏族として最初の執政官に就任し、続いて紀元前300年にはポンティフェクス(神祗官)の一員となった。歴史家フリードリッヒ・ミュンツァーはこの執政官デンテルがサリナトルの曽祖父と推定している[1]。父および祖父のプラエノーメン(第一名、個人名)は共にマルクスであり、父は紀元前219年と紀元前207年に執政官を務めたマルクス・リウィウス・サリナトルと推察される[1]。
経歴
[編集]キケロは、マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)と同年齢としており[2]、これが正しければ紀元前234年生まれということになる[3]。
紀元前211年、死去したマニウス・ポンポニウス・マトに代わって、神祇官の一員となった[4]。
紀元前204年にアエディリス・クルリス(上級按察官)に[5]、紀元前202年にはプラエトル(法務官)に就任した[6]。第二次ポエニ戦争はまだ続いており、サリナトルは2個軍団を率いてブルティウムでカルタゴ軍と戦った[7]。
第二次マケドニア戦争中の紀元前199年、ローマ艦隊の司令官に任じられたが、前任者のルキウス・アプスティウス・フッロは秋まで権限委譲をせず、さらに紀元前198年春には新しい司令官ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスがバルカン半島に到着したため、結局何もしなかった[3]。
紀元前193年、執政官ルキウス・コルネリウス・メルラの下で騎兵部隊を指揮した[8]。ムティナの戦いでローマの勝利を決定づけたのは、彼の突撃であったという[9]。この年行われた執政官選挙は、マニウス・アキリウス・グラブリオら7人の有力者が乱立する[10]激しいもので、ここに立候補して落選した可能性がある[11]。
紀元前191年、2度目のプラエトルとなり[12]、ローマ・シリア戦争では艦隊を率いてアンティオコス3世とアエトリア同盟の連合軍と戦った。ケファロニア島とザキントス島を服従させ、さらにペルガモンの艦隊も加え、小アジアの海岸に移動した。ここでポリセニデスが率いるシリア艦隊を撃破した[13]。ポカイアで冬営の後、ルキウス・コルネリウス・スキピオ(後のスキピオ・アシアティクス)が率いるローマ陸軍のヘレスポントス海峡渡海を支援した。その後ルキウス・アエミリウス・レギッルスと交代して、紀元前190年末にはローマに戻った[14]。
紀元前188年、執政官に選出され、同僚のパトリキ執政官はマルクス・ウァレリウス・メッサッラであった[15]。ガリア・キサルピナでの戦争を担当した。ここでフォルム・リウィイ(現在のフォルリ)を建設している[16]。
子孫
[編集]紀元前130年ごろ、プラエトルにサリナトルのコグノーメン(家族名)を持つ人物が記録されている。個人名、氏族名は不明であるが、ミュンツァーはサリナトルの子孫と考えている[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c Livius, 1926, s. 811-812.
- ^ キケロ『老年について』、7.
- ^ a b Livius 29, 1926, s. 888.
- ^ Broughton, 1951 , p. 276.
- ^ Broughton, 1951 , p. 306.
- ^ Broughton, 1951 , p. 316.
- ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXX, 27, 7; 41, 1.
- ^ Broughton, 1951 , p. 349.,
- ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXV, 5, 8-10.
- ^ Broughton 1991, p. 5.
- ^ Broughton 1991, p. 13.
- ^ Broughton, 1951 , p. 353.
- ^ アッピアノス『ローマ史:シリア戦争』、22.
- ^ Livius 29, 1926 , s. 889-890.
- ^ Broughton, 1951 , p. 365.
- ^ Livius 29, 1926 , s. 890.
- ^ リウィウス『ローマ建国史』、ХLIII, 11, 13.
- ^ Broughton, 1951 , p. 422.
参考資料
[編集]古代の資料
[編集]- アッピアノス『ローマ史』
- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
- マルクス・トゥッリウス・キケロ『老年について』
研究書
[編集]- Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
- Broughton, T. R. S. (1991). “Candidates Defeated in Roman Elections: Some Ancient Roman "Also-Rans"”. Transactions of the American Philosophical Society (American Philosophical Society) 81 (4): i-vi+1-64. JSTOR 1006532.
- Münzer F. Livius // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1926. - Bd. XIII, 1. - Kol. 810-814.
- Münzer F. Livius 29 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1926. - Bd. XIII, 1. - Kol. 888-890.
公職 | ||
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先代 グナエウス・マンリウス・ウルソ マルクス・フルウィウス・ノビリオル |
執政官 同僚:マルクス・ウァレリウス・メッサッラ 紀元前188年 |
次代 マルクス・アエミリウス・レピドゥス ガイウス・フラミニウス |