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マルクス・リウィウス・デンテル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マルクス・リウィウス・デンテル
M. Livius C.n. Denter
出生 不明
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 リウィウス氏族
官職

執政官(紀元前302年)

法務官代理(紀元前295年)
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マルクス・リウィウス・デンテルラテン語: Marcus Livius Denter、生没年不詳)は紀元前4世紀末の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前302年執政官(コンスル)を務めた。

出自

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プレブス(平民)であるリウィウス氏族の出身。父のプラエノーメン(第一名、個人名)は不明だが、祖父はガイウスである。マルクスはリウィウス氏族としては最初の執政官である。

経歴

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紀元前302年に執政官に就任。同僚執政官はパトリキ(貴族)のマルクス・アエミリウス・パウッルスであった[1]。この年、アエクイがローマに反乱した。しかし、両執政官は出征せず、ガイウス・ユニウス・ブブルクス・ブルトゥス独裁官(ディクタトル)としてアエクイとの戦いを担当した[1]

紀元前300年オグルニウス法が成立し、それまでパトリキに限られていた神祇官(ポンティフ)職がプレブスに開放された。デンテルはプブリウス・デキウス・ムスガイウス・マルキウス・ルティルス・ケンソリヌスプブリウス・センプロニウス・ソプスと共に、最初のプレブス・ポンティフに選ばれた[2]

紀元前295年には執政官プブリウス・デキウス・ムスと共にサムニウムガリアエトルリア連合軍との戦いに出征した。センティヌムの戦いでローマ軍は不利となったが、ムスは自身が「生贄となる」ことを決心し、デンテルに別離の言葉を復唱するよう命令し、続いて自身を犠牲にすることで自軍を敵に向かわせた[3]。この直前に、ムスはデンテルを法務官代理(プロプラエトル)に任じ、インペリウム(軍事指揮権)を与えている[4]

脚注

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  1. ^ a b リウィウスローマ建国史』、 X, 1
  2. ^ リウィウス『ローマ建国史』、 X, 9
  3. ^ リウィウス『ローマ建国史』、 X, 28
  4. ^ リウィウス『ローマ建国史』、 X, 29

参考資料

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関連項目

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公職
先代
セルウィウス・コルネリウス・レントゥルス
ルキウス・ゲヌキウス・アウェンティネンシス
執政官
同僚:マルクス・アエミリウス・パウッルス
紀元前302年
次代
独裁官
マルクス・ウァレリウス・コルウス