セルウィウス・コルネリウス・レントゥルス
セルウィウス・コルネリウス・レントゥルス Ser. Cornelius Cn.f. Cn.n. Lentulus | |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | コルネリウス氏族 |
官職 | 執政官(紀元前303年) |
セルウィウス・コルネリウス・レントゥルス(ラテン語: Servius Cornelius Lentulus、生没年不詳)は紀元前4世紀末の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前303年に執政官(コンスル)を務めた。
出自
[編集]パトリキ(貴族)であるコルネリウス氏族の出身。父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はグナエウスである[1]。
ヴィルヘルム・ドルマンによれば、セルウィウスは紀元前275年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスの祖父であるとする[2]。しかし、祖父と孫にしては、執政官就任の間隔が30年と近すぎる。このため、フリードリッヒ・ミュンツァー[3]とサムナー[4]は、ルキウスの祖父は記録には残っていないがセルウィウスの同名の叔父と考えている。
経歴
[編集]紀元前303年に執政官に就任。同僚執政官はプレブス(平民)のルキウス・ゲヌキウス・アウェンティネンシスであった[5]。この年、レントゥルスはフルシノ(現在のフロジノーネ)の謀略の調査を行った:
フルシノは、彼らがヘルニキの反乱の扇動者であることが確認されたため、領土の3分の1を割譲させられた。元老院は執政官に調査を命じ、首謀者たちは鞭打たれた後に斬首された。
— ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、 X, 1
続いて小さな遠征隊がウンブリアに送られた。
その後、ローマが軍事作戦を行わずに1年が過ぎないようにするために、小さな遠征隊がウンブリアに送られた。そこでは、洞窟に隠れていた盗賊が周辺を襲撃していると報告されていた。ローマ兵は洞窟に突入し、その多く負傷したが、そのほとんどは暗闇での投石によるものであった。しばらく行くと、彼らは洞窟につながる別の入り口を発見したが、どちらの入り口も木で塞がれていた。ローマ軍はこれに火を放ち、洞窟を煙で満たした。盗賊達は脱出を試みて火の中に飛び込み、2,000人が死亡した。
— ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、 X, 1
脚注
[編集]参考資料
[編集]- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
- カピトリヌスのファスティ
- Drumann, Wilhelm, Geschichte Roms in seinem Übergange von der republikanischen zur monarchischen Verfassung oder Pompeius, Caesar, Cicero und ihre Zeitgenossen. Hildesheim, 1964,
- Münzer, Friedrich, Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft
- Sumner GV, Orators in Cicero's Brutus: Prosopography and Chronology, 1973
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 プブリウス・センプロニウス・ソプス プブリウス・スルピキウス・サウェッリオ |
執政官 同僚:ルキウス・ゲヌキウス・アウェンティネンシス 紀元前303年 |
次代 マルクス・リウィウス・デンテル マルクス・アエミリウス・パウッルス |