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ガイ・ド・ビーチャム (第10代ウォリック伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ガイ・ド・ビーチャム
Guy de Beauchamp
第10代ウォリック伯
在位 1298年6月9日 - 1315年8月12日

出生 1270年
死去 1315年8月12日
配偶者 イザベル・ド・クレア
  アリス・ド・トエニ英語版
子女 トマス
ジョン英語版
モード
エマ
イザベル
エリザベス
ルーシー
家名 ビーチャム家
父親 9代ウォリック伯ウィリアム・ド・ビーチャム英語版
母親 モード・フィッツジョン
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1301年バロンズレター英語版の10代ウォリック伯ガイ・ド・ビーチャムの印章

第10代ウォリック伯爵ガイ・ド・ビーチャム(Guy de Beauchamp, 10th Earl of Warwick, 1270年頃 – 1315年8月12日)は、イングランドの貴族。

経歴

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1270年頃、第9代ウォリック伯爵ウィリアム・ド・ビーチャム英語版とモード・フィッツジョンの間の長男として生まれる[1][2]

1296年に騎士に叙される。1298年6月9日に父の死によりウォリック伯爵位を継承した[2]。1300年にはエドワード1世に従ってスコットランドカラヴァロック城英語版の包囲に参加[2]。1304年のスターリング城包囲戦英語版にも参加[2]。1307年2月にはバーナード城英語版を与えられた[2]

エドワード2世即位後、第2代ランカスター伯トマスらとともに国王の寵臣政治に反対して、国王や国王寵臣初代コーンウォール伯ピアーズ・キャヴィストンと対立を深めた[3]1312年、スカーバラ城に籠城していた国王とキャヴィストンが反国王派諸侯たちに降伏した後、国王と諸侯の交渉でキャヴィストンの助命と国外追放が決まり、キャヴィストンの身柄は第2代ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランス英語版に引き渡された。しかしウォリック伯はキャヴィストン助命に納得せず、隙をついてキャヴィストンを誘拐し、自分のウォリック城まで連行した。そこでランカスター伯や第9代アランデル伯エドムンド・フィッツアランらの立ち合いのもとにキャヴィストンを私刑の裁判の末に斬首した[4][5]。この事件に国王やペンブルック伯は激怒し、内乱の空気が漂ったが、皇太子エドワード出産の慶事があったので当面は事なきを得た[6]

1315年8月12日に謎の多い死を遂げた[1][7]。爵位は息子のトマス・ド・ビーチャムが継承した[1]

子女

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1297年5月11日以前に第6代グロスター伯ギルバート・ド・クレア英語版の娘イザベル・ド・クレアと最初の結婚をしたが、彼女との間に子供はない[1][2]

最初の妻との死別後の1310年1月から2月にラルフ7世・ド・トエニの娘アリス・ド・トエニ英語版と結婚。彼女との間に以下の2男5女を儲けた[1][2]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Warwick, Earl of (E, 1088 - 1446)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年4月14日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g Lundy, Darryl. “Guy de Beauchamp, 10th Earl of Warwick” (英語). thepeerage.com. 2020年4月27日閲覧。
  3. ^ 森護 1986, p. 127.
  4. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 288.
  5. ^ 森護 1986, p. 128.
  6. ^ 森護 1986, p. 129.
  7. ^ マーリン・エンターテイメンツ. “History of Warwick Castle” (英語). Warwick Castle. 2020年4月14日閲覧。

参考文献

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  • 青山吉信 編『イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年。ISBN 978-4634460102 
  • 森護『英国王室史話』大修館書店、1986年(昭和61年)。ISBN 978-4469240900 
イングランドの爵位
先代
ウィリアム・ド・ビーチャム英語版
第10代ウォリック伯爵
1298年–1315年
次代
トマス・ド・ビーチャム