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ガンネル (潜水艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
USS ガンネル
基本情報
建造所 エレクトリック・ボート造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 攻撃型潜水艦 (SS)
級名 ガトー級潜水艦
艦歴
起工 1941年7月21日[1]
進水 1942年5月27日[1]
就役 1942年8月20日[1]
退役 1946年5月18日[2]
除籍 1958年9月1日[2]
その後 1959年8月1日にスクラップとして売却[2]
要目
水上排水量 1,525 トン[3]
水中排水量 2,424 トン[3]
全長 311フィート9インチ (95.02 m)[3]
水線長 307フィート (93.6 m)
最大幅 27フィート3インチ (8.31 m)[3]
吃水 17フィート (5.2 m)(最大)[3]
主機 ホーヴェン=オーエンス=レントシュラー(H.O.R.)ディーゼルエンジン×4基
(換装後)ゼネラルモーターズ278A 16気筒ディーゼルエンジン×4基[3]
電源 ゼネラル・エレクトリック発電機×2基[3]
出力 5,400馬力 (4.0 MW)[3]
電力 2,740馬力 (2.0 MW)[3]
推進器 スクリュープロペラ×2軸[3]
最大速力 水上:21ノット[4]
水中:9ノット[4]
航続距離 11,000カイリ/10ノット時[4]
航海日数 潜航2ノット時48時間、哨戒活動75日間[4]
潜航深度 試験時:300フィート (91 m)[4]
乗員 (平時)士官6名、兵員54名[4]
兵装
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ガンネル (USS Gunnel, SS-253) は、アメリカ海軍潜水艦ガトー級潜水艦の一隻。艦名はゲンゲ亜目に属するギンポ類の総称に因む。

ペンポイント・ガンネル(Penpoint gunnel
クレセント・ガンネル(Crescent gunnel

艦歴

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「ガンネル」はコネチカット州グロトンエレクトリック・ボート社で起工した。1942年5月17日にベン・モレル夫人(海軍造船局長ベン・モレル少将の妻)によって進水し、艦長ジョン・S・マケイン・ジュニア少佐(アナポリス1931年組)の指揮下8月20日に就役する。

「ガンネル」から「パーゴ (USS Pargo, SS-264) 」までのエレクトリック・ボートで建造されたガトー級潜水艦には、本来搭載されるべきエンジンの製造が間に合わなかったためか、2サイクル複動九気筒型H.O.R.社製エンジンを搭載して竣工した。しかし、このエンジンはトラブルが多く信頼性に欠けていたため、対象の全艦が、オーバーホールの際に換装を行っている。

大西洋での第1の哨戒 1942年10月 - 12月

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10月19日、「ガンネル」は最初の哨戒でアメリカからイギリスまでの航路を向かった後、ヘンリー・K・ヒューイット英語版大将指揮下の西部方面海軍機動部隊に配属され、トーチ作戦に参加した6隻の潜水艦の内の1隻となった。11月6日、作戦の2日前にカサブランカの北東にある港町フェドハラを偵察し、作戦当日の11月8日には海岸へ向かう艦隊を信号を用いて先導した。12月7日、49日間の行動を終えてスコットランドロスネース英語版に帰投した。

この後、ガンネルは帰国の途に就く。しかし、帰路の途中H.O.R.エンジンが故障し、残る970海里 (1,800 km) の距離を補助エンジンで航行しなければならなかった。帰国するとメイン州キタリーポーツマス海軍造船所オーバーホールが行われた。オーバーホールが完了すると、太平洋艦隊に配属され真珠湾に向かった。

第2、第3の哨戒 1943年5月 - 1944年1月

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5月28日、「ガンネル」は2回目の哨戒で九州近海および東シナ海に向かった[7]。6月15日未明、北緯33度55分 東経127度38分 / 北緯33.917度 東経127.633度 / 33.917; 127.633巨文島の南東10海里の対馬海峡でレーダーにより目標を探知し、浮上しながら接近して魚雷を3本発射[8]。1本が船尾に命中し、さらに魚雷を4本発射して1本が命中[8]。この攻撃で輸送船「光洋丸」(大光商船、6,426トン)を撃沈した。4日後の6月19日朝には北緯32度30分 東経126度15分 / 北緯32.500度 東経126.250度 / 32.500; 126.250済州島南西100海里の水域で支第809船団を発見し、2隻の輸送船に対して魚雷を3本ずつ発射[9]。8時25分に輸送船「常盤丸」(鏑木汽船、6,971トン)の左舷後部に魚雷を1本命中させて撃沈し、他の魚雷は2隻の陸軍輸送船、「三池山丸」(菅谷汽船、3,179トン)および「宇賀丸」(松岡汽船、4,433トン)に向かったが回避された[10][11]。夜に入り浮上したところ、北緯32度40分 東経126度37分 / 北緯32.667度 東経126.617度 / 32.667; 126.617の地点でレーダーにより「若竹型駆逐艦」らしい目標を探知し、魚雷を2本発射して1本を命中させ、目標を撃沈したと判断される[12]。このとき、敷設艇「巨済」は相前後して「ガンネル」を発見しており、砲撃を行って相手を撃沈したと報告した[13][注 1]。7月3日、31日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投[19]。のちにメア・アイランド海軍造船所に回航されてオーバーホールを受けた[20]。哨戒中にトラブルが頻発したので[21]、この際にH.O.R.エンジンからGM社製278Aエンジンへの換装を行っている[20]

11月17日、「ガンネル」は3回目の哨戒で日本近海に向かった。12月2日夜、北緯26度03分 東経147度50分 / 北緯26.050度 東経147.833度 / 26.050; 147.833硫黄島近海でレーダーで6つの目標を探知する[22]。やがて、空母瑞鳳」「雲鷹」「冲鷹」、重巡洋艦摩耶」を中心とする艦隊を発見。空母に対して魚雷を4本発射したが命中しなかった[23][24]。2日後の12月4日、「ガンネル」は北緯29度36分 東経145度54分 / 北緯29.600度 東経145.900度 / 29.600; 145.900父島北東およそ520キロの海域で第3201船団を発見し、魚雷を4本発射[25][26]。魚雷は特設運送船「日吉丸」(巴組汽船、4,046トン)に命中して撃沈した[26][27]。12月22日にも北緯34度21分 東経138度39分 / 北緯34.350度 東経138.650度 / 34.350; 138.650の地点で2隻の大型輸送船を発見し、魚雷を3本発射する用意をしたが、結局発射しなかった[28]。1944年1月7日、51日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。

第4、第5、第6の哨戒 1944年2月 - 9月

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2月5日、「ガンネル」は4回目の哨戒で南シナ海スールー海およびセレベス海に向かった。3月18日、北緯01度52分 東経120度39分 / 北緯1.867度 東経120.650度 / 1.867; 120.650タウィタウィ近海で、パラオからバリクパパンに向かう空母「千代田」と護衛の駆逐艦「」および「」を発見したものの、9,000ヤードより距離を縮めることができず、16発の爆雷で追い払われた[29][30][31]。「千代田」はバリクパパンで燃料補給ののち、東進してパラオに向かったが、「ガンネル」はその千代田を北緯01度28分 東経119度46分 / 北緯1.467度 東経119.767度 / 1.467; 119.767の地点で3月22日に再び発見するも、11,000ヤード離れて15ノットで航行されては手の尽くしようもなかった[31][32][33]。結局、この哨戒では攻撃の機会は一度もなく、戦果は挙げられなかった[34]。3月30日にダーウィンに寄港[35]。4月6日、60日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

5月3日、「ガンネル」は5回目の哨戒で南シナ海に向かった。途中、当時この方面にいた空母「サラトガ」 (USS Saratoga, CV-3) とイギリス空母「イラストリアス」 (HMS Illustrious, R87) の搭載機が、5月17日にスラバヤを空襲する予定だったので(トランサム作戦)、その支援として「ガンネル」を含む8隻の潜水艦に救助任務を与えた。「ガンネル」は南緯06度05分 東経105度48分 / 南緯6.083度 東経105.800度 / -6.083; 105.800スンダ海峡沖で待機し、この任務に従事した[36]。空襲作戦が終わると哨戒海域に向かった。6月8日、北緯11度59分 東経112度29分 / 北緯11.983度 東経112.483度 / 11.983; 112.483の地点でレーダーにより複数の目標を探知し、詳しく観測すると小型空母と3隻の輸送船を発見する[37]。浮上して追跡を開始するが、見張りの士官が「24マイル以内に航空機あり」と報告したため、これを避けなければならなかった[38]。再び追跡しようとした時には姿はすでになく、マケイン艦長の三度目の空母との接触も、相手に振り切られた形で終わった[38]。この哨戒でも攻撃の機会は一度もなく戦果は挙がらなかった[39]。7月4日、63日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がガイ・E・オニール・ジュニア少佐(アナポリス1937年組)に代わった。

7月29日、「ガンネル」は6回目の哨戒で「レイトン」(USS Raton, SS-270)、「ギターロ」 (USS Guitarro, SS-363) とウルフパックを構成しルソン島近海に向かった。8月18日、「ガンネル」は北緯13度10分 東経121度49分 / 北緯13.167度 東経121.817度 / 13.167; 121.817の地点で6隻の海上トラックの船団を発見して、そのうちの1隻を破壊する[40]。2日後の8月20日未明には、北緯13度32分 東経121度26分 / 北緯13.533度 東経121.433度 / 13.533; 121.433ベルデ島水路東南口で5隻の輸送船団を発見し、2隻の輸送船に対して魚雷を3本ずつ発射[41]。全速力で転舵ののち、三番目の目標に対してさらに魚雷を3本発射[42]。しかし、いずれの魚雷も命中した様子はなかった[42]。8月22日午後にも北緯12度54分 東経122度51分 / 北緯12.900度 東経122.850度 / 12.900; 122.850の地点で2隻の輸送船を発見し、魚雷を6本発射したが命中しなかった[43]。9月22日、54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

第7、第8の哨戒 1944年10月 - 1945年7月

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10月21日、「ガンネル」は7回目の哨戒で「マスケランジ」 (USS Muskallunge, SS-262) とともにルソン島近海に向かった。11月8日未明、「ガンネル」は北緯16度09分 東経118度56分 / 北緯16.150度 東経118.933度 / 16.150; 118.933のルソン島西方海上で、輸送船団と思しき複数の目標を探知し、やがて対潜掃討中の水雷艇」が攻撃圏内に入ってきた[44][45]。「ガンネル」は魚雷を3本発射し、うち1本が「鷺」に命中して撃沈した[46]。11月12日には、北緯17度13分 東経116度26分 / 北緯17.217度 東経116.433度 / 17.217; 116.433の地点で「大和型戦艦」と「利根型重巡洋艦」を発見し、約4時間あまりにわたって追跡を行ったが、最終的には振り切られた[47]。11月16日夜、北緯16度30分 東経110度14分 / 北緯16.500度 東経110.233度 / 16.500; 110.233のルソン島バタンガン岬北東230キロの地点でミ20船団を発見し接近の上、11月17日明け方に北緯16度56分 東経110度30分 / 北緯16.933度 東経110.500度 / 16.933; 110.500の地点にいたったところで魚雷を6本発射し、2隻の目標に計5本が命中したと判断される[48]。反転して魚雷を3本発射したのち一時船団から離れ、北緯17度05分 東経110度42分 / 北緯17.083度 東経110.700度 / 17.083; 110.700の地点で再度ミ20船団を迎え撃ち、魚雷を4本発射[49]。航空機を観測しつつなおも追撃し、午後に入って北緯17度36分 東経110度33分 / 北緯17.600度 東経110.550度 / 17.600; 110.550の地点で艦首発射管に残った3本の魚雷を発射、1本の命中を確認した[50]。一連の攻撃で特設運送船「春天丸」(大同海運、5,623トン)と水雷艇「」を撃沈した[51]。12月1日から2日にかけてはパナイ島の北西にあるマニグイン島に向かい、2カ月間の間現地ゲリラに保護されていた11名の海軍パイロットを収容し、代わりに武器弾薬を譲渡した[52]。12月17日から18日にかけてはサイパン島タナパグ港に寄港[53]。12月28日、65日間の行動を終えて真珠湾に帰投。ハンターズ・ポイント海軍造船所に回航されてオーバーホールに入った[6]

1945年6月13日、「ガンネル」は8回目の哨戒で日本近海に向かった。7月9日10時20分ごろ、北緯32度40分 東経132度34分 / 北緯32.667度 東経132.567度 / 32.667; 132.567沖の島南方11浬地点付近の豊後水道で、回天特別攻撃隊(轟隊)に参加した後へ帰投中の潜水艦「伊36」を発見し魚雷を4本発射したが、魚雷は外れて沖の島に命中し爆発した[54][55]。その後「ガンネル」は、日本本土を爆撃するB-29の乗員救助任務に当たった。7月27日、41日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した[56]。翌7月28日に出港し、真珠湾には8月8日に到着して、そのまま終戦を迎えた[57]

戦後

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「ガンネル」は終戦後、ニューロンドンへの帰還を命じられ、1946年5月18日に退役する。その後は現役に戻ることがないまま1958年9月1日に除籍され、1959年8月1日にスクラップとして売却された。

脚注

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注釈

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  1. ^ 6月21日に沈没した特設砲艦「香港丸」(東亜海運、2,797トン)を「ガンネル」の戦果とする資料がある[14]。しかし、この日に「ガンネル」が攻撃を行った記録はない[15]。「ガンネル」が6月19日に損傷を与えて6月21日に沈没したという資料もあるが[16]、「香港丸」の被害報告の初出は6月21日である[17][18]

出典

[編集]
  1. ^ a b c #SS-253, USS GUNNELp.3
  2. ^ a b c #Friedman pp.285-304
  3. ^ a b c d e f g h i j #Bauer
  4. ^ a b c d e f #Friedmanpp.305-311
  5. ^ #SS-253, USS GUNNELp.157
  6. ^ a b #SS-253, USS GUNNELp.307
  7. ^ #SS-253, USS GUNNELp.25
  8. ^ a b #SS-253, USS GUNNELp.28,40
  9. ^ #SS-253, USS GUNNELp.31,40
  10. ^ #佐鎮1806p.11,14
  11. ^ #駒宮p.70
  12. ^ #SS-253, USS GUNNELp.32,40
  13. ^ #佐鎮1806pp.20-22
  14. ^ #Roscoe
  15. ^ #SS-253, USS GUNNELp.33-34
  16. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter V: 1943” (英語). HyperWar. 2012年5月19日閲覧。
  17. ^ #佐鎮1806p.11-42
  18. ^ #佐防戦1806p.28
  19. ^ #SS-253, USS GUNNELp.34
  20. ^ a b #SS-253, USS GUNNELp.54
  21. ^ #SS-253, USS GUNNELp.27,33, pp.42-43, p.47
  22. ^ #SS-253, USS GUNNELp.54,
  23. ^ #SS-253, USS GUNNELp.55,67, pp.72-73
  24. ^ #木俣空母p.533
  25. ^ #SS-253, USS GUNNELp.56, pp.74-75
  26. ^ a b #二護1812pp.52-53
  27. ^ #SS-253, USS GUNNELp.56
  28. ^ #SS-253, USS GUNNELpp.61-62, p.69
  29. ^ #SS-253, USS GUNNELp.97,106
  30. ^ #木俣空母pp.587-588
  31. ^ a b #Blair p.582
  32. ^ #SS-253, USS GUNNELp.98,106
  33. ^ #木俣空母p.588
  34. ^ #SS-253, USS GUNNELp.110
  35. ^ #SS-253, USS GUNNELp.101
  36. ^ #SS-253, USS GUNNELp.125
  37. ^ #SS-253, USS GUNNELp.132,143
  38. ^ a b #Blair p.631
  39. ^ #SS-253, USS GUNNELp.146
  40. ^ #SS-253, USS GUNNELpp.165-166, p.200
  41. ^ #SS-253, USS GUNNELp.167, pp.194-196
  42. ^ a b #SS-253, USS GUNNELp.168 pp.194-196
  43. ^ #SS-253, USS GUNNELp.170 pp.197-199
  44. ^ #SS-253, USS GUNNELp.233
  45. ^ #一護1911p.7
  46. ^ #SS-253, USS GUNNELp.234, pp.265-266
  47. ^ #SS-253, USS GUNNELpp.235-236, p.259
  48. ^ #SS-253, USS GUNNELpp.240-242, pp.267-269
  49. ^ #SS-253, USS GUNNELpp.243-244, pp.270-272
  50. ^ #SS-253, USS GUNNELpp.245-246, pp.273-275
  51. ^ #一護1911p.58
  52. ^ #SS-253, USS GUNNELp.252, pp.295-304
  53. ^ #SS-253, USS GUNNELp.256
  54. ^ #特攻回天戦p.261
  55. ^ #SS-253, USS GUNNELpp.324-325, pp.337-338
  56. ^ #SS-253, USS GUNNELpp.333-334
  57. ^ #SS-253, USS GUNNELp.334

参考文献

[編集]
  • (issuu) SS-253, USS GUNNEL. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-253_gunnel 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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    • Ref.C08030461900『武装商船警戒隊戦闘詳報 第七〇号』、18-22頁。 
    • Ref.C08030142900『自昭和十八年十二月一日至同十二月三十一日 第二海上護衛隊司令部戦時日誌』、40-75頁。 
    • Ref.C08030141700『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第一海上護衛隊戦時日誌』。 
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  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
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外部リンク

[編集]