ギュンター・グラス
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ギュンター・グラス Günter Grass | |
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2004年、フランクフルト・ブックフェアにて | |
誕生 |
1927年10月16日 自由都市ダンツィヒ (現 ポーランド、グダニスク) |
死没 |
2015年4月13日(87歳没) ドイツ、リューベック |
職業 | 小説家、詩人 |
国籍 | ドイツ |
文学活動 | 47年グループ |
代表作 | 『ブリキの太鼓』(1959年) |
主な受賞歴 |
グルッペ47文学賞(1958年) ゲオルク・ビューヒナー賞(1965年) アストゥリアス皇太子賞(1999年) ノーベル文学賞(1999年) |
署名 | |
ウィキポータル 文学 |
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ギュンター・グラス(Günter Grass、1927年10月16日 - 2015年4月13日)は、ドイツの現代小説家、劇作家、版画家、彫刻家。代表作に『ブリキの太鼓』、『ひらめ』、『女ねずみ』、『はてしなき荒野』などがある。1999年にノーベル文学賞受賞。
人と作品
[編集]20世紀
[編集]ギュンター・グラスは1927年、ダンツィヒ[注釈 1]で生まれた。父はドイツ人の食料品店主、母は西スラヴ系少数民族のカシューブ人。幼少年時代をナチスの狂気に踏み躙られ、戦争末期にはソ連軍と交戦し、その戦闘で彼と同世代の約半数が戦死し、アメリカ軍の捕虜になり、故郷ダンツィヒを失う。これがグラスの原体験である。偶然にも戦争を生き延び、戦後の混乱期を独力で生き抜いてきたグラスが、死者と未来の人々に対し過去の狂気を再現してはならないという使命感を抱き、常に政治的であり続けるのはしごく尤もなことである。戦後、デュッセルドルフで彫刻家・石工として生計をたてながら美術学校に通い、詩や戯曲などを書く。1958年、グラスは、反動的な唯美主義に反対して新しい言語、文学を求めて始まった、朗読による作品発表の場「グルッペ47」(Gruppe47)で翌年、出版されることになる『ブリキの太鼓』の一部を朗読し、満場一致でグルッペ47文学賞を受賞する。
『ブリキの太鼓』[2](1959年)は第二次世界大戦を中心とした前後30年間を時代背景とする戦争責任の問題に深く関わった作品で、その特徴は誕生と同時に治癒しがたい世界を認識し、その世界の一員になることを拒絶し、小人にとどまった主人公オスカルの視点から時代を自由に活写したところにある。大人たちの価値基準からすれば、オスカルは所詮哀れな白痴の太鼓叩きにしかすぎず、大人たちは彼の存在に少しの顧慮も払うことなく、自分たちの生を営む。このオスカルの視点が、左右均整のとれた非人間的な演壇を裏側から眺めることを可能にし、性や栄誉の自己満足を求めて奔走し、状況を認識し得ない政治社会的に未熟な大人たちが、結果的にはナチスの台頭を支え、極めて大きな政治的役割を演じたというパラドクスな状況を、逆に大人たちを見下しながら客観化することに成功したのである。『ブリキの太鼓』を皮切りに1963年まで2年ごとに『猫と鼠』(1961年)、『犬の年』(1963年)を発表する。この3作品は共に第三帝国時代を中心としたダンツィヒを舞台にし、登場人物も、かなり多くの者が共通していることからダンツィヒ三部作と呼ばれる。三部作の主人公はみな小市民階級の子弟であり、ナチスの軍靴に少年時代を蹂躙された犠牲者である。『猫と鼠』の主人公ヨアヒム・マールケは病弱な肉体を鍛錬し、この狂気の大人世界に戦いを挑むが、結局掃海艇の中へ逃亡し破滅する。『犬の年』のユダヤ人アムゼルは同胞が迫害され、虐殺された歴史の記録を企画し、ハリーはユダヤ人の骨の山が築かれる時代が、どのようにアムゼルとマテルンの義兄弟の契りを引き裂いていくかを叙述し、マテルンは戦後、自分を傷つけ、ヒトラーに忠誠を誓っていた者たちに復讐する裁きの旅に出る。状況を正しく認識し、判断する能力も十分に具わっていず、他の価値体系の存在も知らない少年たちは所与の状況に翻弄される。このような少年たちは敗戦と共に価値体系の倒潰転覆を体験し、当時の大人たちに激しい不信感を抱き、以来何事に対しても懐疑的になる。ギュンター・グラスもその一人で、彼は『犬の年』で歯軋りしながら、大人たちの正体を看破する認識メガネを考案する。ダンツィヒ三部作の背後には、少年らしい夢や希望を奪われ、何度も戦火に焼かれ、戦争末期にはソ連軍と交戦し、その戦闘で彼と同世代の約半数が戦死し、故郷ダンツィヒを失ったグラスの原体験が、主人公の少年たちから大人世代へ向けられた不信感として存在している。
ダンツィヒ三部作後、グラスは自らドイツ社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands)[注釈 2]の党員となり[3]、作家の枠を超えて直接政治活動を行う。1965年の連邦議会選挙の際、彼はSPDへの支持を訴え選挙遊説する。敗戦から20年が経過し、西ドイツはすでに奇跡の経済復興を為し遂げ、連邦首相はアデナウアーからエアハルトに代わっていた。グラスは作家という職業は現実社会から遊離したものではなく、社会的存在であるとみなし、積極的に政治活動をする。「未だ嘗て国家主義的ヒステリーに陥ったことのないその成長した国民意識と、実証済みの憲法に対する忠誠でもって、社会民主主義者たちは何度もヴァイマル共和国を救いました」と議会制民主主義の漸進的な発展を保証するSPDを支援し、SPDの党首ヴィリー・ブラントが私生児で、大戦中亡命していたことに関する誹謗中傷に対し亡命作家トーマス・マンを援用しながら、それいかに敵意に満ちた不当なものであるかとヴィリー・ブラントを弁護する。1966年、キリスト教民主同盟のクルト・ゲオルク・キージンガーを首相とする呉越同舟のCDU(キリスト教民主同盟)・CSU(キリスト教社会同盟)・SPDによる大連立内閣が成立すると、グラスはこの大連立にSPDが含まれることに危惧を覚え、SPDの、東ドイツを将来西ドイツと統合されるべきはずの一方の分割国家として承認し、ソ連、東欧諸国との関係を改善していくという外交政策が放棄され、利用されることによって、多くのSPD支持者を失うことになるのではないかと反対表明する、と同時にキージンガー首相を告発する。何となれば、かつてのナチスの党員であったキージンガーが、過去の国家的犯罪の清算から再出発しなければならなかった戦後西ドイツの宰相になるということは、克服されざる過去の何よりの証左だからである。
1963年から1969年の6年間に成立した作品は、戯曲『賎民たちの暴動稽古―ドイツの悲劇』(1966)及び詩と素描画集の『尋ねられて』(1967)の2つで、あとは書簡や講演などを集めた『自明のことについて』(1968)があるのみで、この期間グラスがいかに政治活動に没頭していたかを物語っている。戯曲『賎民たちの暴動稽古ードイツの悲劇』の舞台は、もはや戦時下のダンツィヒではなく、戦後の東ベルリンである。1953年6月16日・17日に東ベルリンを中心に東ドイツ各地で実際に起きた労働者の蜂起とソビエト軍の戦車による暴動鎮圧を題材とし、ベルトルト・ブレヒトをモデルにした劇団の座長を主役に据え、知識人の思想と行動の乖離を問題化したものである。ローマ市民が暴動を起こし、圧制者を打倒しようとする戯曲『コリオラン』の舞台稽古をしているとき、東ベルリンで本当に労働者たちが決起する。厳しすぎるノルマに耐えかね、政府の退陣と自由を求めて立ち上がったのである。マルキストの座長は、彼本来の思想に則るならば、民衆の側に立ち革命を実践できる千載一遇の機会であるはずなのに、彼は財政的援助を受けている国家と東ベルリンで蜂起した労働者との間で逡巡し、労働者の、署名入りの公開書簡を書いて欲しいという依頼にジレンマに陥り、肩透かしをくわせ、秩序を要求する。
1969年に発表された『その前に』と『局部麻酔をかけられて』は、細部においては若干異なる箇所があるものの、登場人物、時代背景、ストーリーは共通で、『その前に』は小説『局部麻酔をかけられて』の中心部がドラマ化されたものである。『局部麻酔をかけられて』には、ダンツィヒ三部作すべてに登場する、塵払い団の頭領として非政治的に体制に抵抗してきたアナキスティクな少年シュテルテベーカーが、シュタールッシュという名前でギムナジウムの国語と歴史の教師として戦後世界に登場する。彼と彼の同僚の女教師ザイフェルトは、作者グラスと同じ1927年生まれの40歳で、彼女は第三帝国時代、ドイツ女子青年団で熱心に活動していた。この体験が現在、払拭し難い彼女の罪の意識を形成している。本来ならグラスは、彼と同年齢の教師シュタールッシュとザイフェルトの過去をもっと強調し、戦後の豊かな消費社会に物質的欲求が充たされた結果、精神が鈍感になり自己の欲望の充足のみに情熱を注ぐ人々を批判的に描き、ダンツィヒ三部作を四部作にするつもりであったが、新たなアクチュアルな問題として過激な議会外反対勢力(Außerparlamentarische Opposition)[注釈 3]が現われ、二人の教え子、過激な右翼の男子生徒シェールバウムと急進的な左翼の女子生徒ヴェロを登場させる。シェールバウムはヴェトナム戦争でアメリカ軍がナパーム弾を使用しているのに抗議して愛犬を西ベルリンの中心クーダムにある高級ホテルの前で、お客の多い午後、ガソリンをかけて焼き殺すという過激な計画を立てる。この計画をめぐってストーリーは展開する。シェールバウムは計画を断念するよう説得されたり、実行するよう促されたりしているうちに時が経ち、結局計画を放棄する。ヴェロはシェールバウムの計画が挫折したのち、益々急進化していくが、2年後あっさり結婚し、体制派へ転向する。左右の両急進主義者は中道の革新路線を同じように拒絶することによって崩壊するのである。
『蝸牛の日記から』(1972)は、実際に日記が書かれているのではなく、1969年の連邦議会選挙の際に全国を選挙遊説してまわったグラスの体験が、そのままアクチュアルな現代政治として登場し、この現代とドイツの近過去を主人公が自分の子供たちに物語るという教育的側面を持つ小説である。「今私はお前たちに(選挙戦が続き、キージンガーが首相である限り)物語る、私の家であの晴れた日にゆっくりと紆余曲折を経てそうなっていった様子を、たとえ一様な速度でないにしろ、あの全体にわたる犯罪は多くの場所で同時に始まった」というように、ユダヤ人迫害の様子やシュトゥットホーフ強制収容所の開設などダンツィヒの近過去の歴史と交互に、1969年の選挙遊説の際の体験と注釈が語られ、最終章にこの小説が内容的に収斂されるアルブレヒト・デューラー記念祭での講演「進歩の中の静止」がくる。グラスが理想とする、蝸牛の速度で測られる漸進的発展は「進歩の中の静止」という言葉にも換言され、危険なヘーゲルの世界精神から導き出されたもの一切に対立する概念である。蝸牛はグラスの政治姿勢にとって憂鬱とユートピアの仲介者として重要なのである。グラスはデューラーの「メランコリアI」を題材にしたデューラー記念祭の講演で憂鬱を擁護する。憂鬱は近過去の国家的犯罪に対する後悔によって引き起こされ、憂鬱とユートピアは同じ貨幣の表裏であるからである。それを理解する人が蝸牛の速度での進歩を志すからであり、それ故、保守勢力は体制維持のため、秩序を尊び、甘んじて足ることを教え、憂鬱を禁止するのである。このように支配勢力に物質的豊かさを指摘されることによって、人々の政治社会的な認識眼はますます曇らされ、人々はいっそう利己的になり、声なき声として、すでにキージンガーが首相になっているような克服されざる過去を支えていくことになるのである。「黒たちはいつも違う名前をもっていた。黒たちが生き残り、再来した。彼らの持久力が2倍になった。彼らがナチスに彼らの愚直さを貸した。彼らが小さな利益のためにあの大きな犯罪を犯した。」このようにグラスは、非人間的状況の共同構成者を「黒」で形容する。『ブリキの太鼓』の黒い料理女(schwarze Köchin)や『猫と鼠』の中でマールケの喉仏に跳びかかる黒猫、『犬の年』におけるヒトラーの黒い護衛犬プリンツ。これらすべては災禍を引き起こす、ないしは犯罪の援兵となるもののアレゴリーである。SPDから金銭的援助があるわけではなく、グラスは党の組織とは別個に、シンボルカラーを決め、自らデザインしたポスターや選挙新聞「賛成」(Dafür) を自前で印刷し、睡眠と演説と討論以外の時間は移動するVWバスの中で、あるいはホテルの部屋で、講演原稿、遊説中の体験などについて思考をめぐらし、虚空に、紙の上に絶えず書き続ける精力的な活動を展開する。グラスの選挙遊説が、いつも何の障害もなく順調に進んでいったわけではない。過激派に演壇のマイクを占領されたり、激しく野次られたりしたこともしばしばであった。左翼の急進主義者からは「裏切り者」、「改良主義者」と批難され、右翼の急進主義者たちからは「断念の太鼓叩き」(Verzichttrommler[4]) と罵られた。APOの過激な運動が挫折するとき、必ず勝利を収め一段と勢力を増すのが秩序を尊ぶ保守勢力で、保証された自由は危険に晒され、事態は以前よりいっそう深刻になるのである。しかしながら、グラスはコチコチの、あるいは狂信的なSPD支援者ではない。1992年、SPDが難民の庇護を制限する新難民法案に賛成票を投ずると、グラスは抗議してSPDを脱党する。柔軟で自己の信念に忠実で剛毅なアンガジュマン(社会・政治参加)の作家である。
『ひらめ』(1977年)では、ひらめは最初は女性の歴史の敵対者として登場し、最後はその廉で女性の法廷で裁かれる。作品は食と栄養の分野で各時代の料理女がヴィスラ河の河口で演じる女性の歴史、現代の語り手とその妻イルゼビルが演じる男女の役割関係及びひらめの裁判という3つの物語が、童話から借用したひらめのモチーフを軸に、1973年10月のイルゼビルの受胎から出産までの9カ月にわたって展開される。『テルクテの出会い』[5](1979年)は、グラスが「グルッペ47」の生みの親ハンス・ヴェルナー・リヒターの70歳の誕生日を記念して彼に捧げた、架空の、300年前に開催された「グルッペ47」の物語である。「グルッペ47」が創設された、第二次世界大戦というドイツ最大の戦争後の1947年とキリスト教最後にして最大の宗教戦争末期の1647年には、国土の荒廃、外国勢力による占領、数百万人の死者、言語の混乱、絶望的社会状況などいくつかの類似性があり、その類似性がグラスの想像力をかきたて「グルッペ47」を300年前にミュンスター近郊のテルクテで開催させることにしたのである。グラスの豊かな想像力と旺盛な知識欲がほとんど見通すことさえ不可能な資料を整理し、17世紀バロック時代の文学を自家薬籠中のものにしたのである。『女ねずみ』(1986年)の時代背景は次のようであった。1970年代の初めから西ドイツ各地で活発となった環境保護運動から、「原発反対」、「地球を守れ」をスローガンとする緑の党が誕生。1960年代後半に高揚した学生運動は70年代初めに退潮。東西両陣営の対立がエスカレートし、ソ連の中距離核ミサイルSS20に対抗して、アメリアは西ドイツに巡航ミサイル・トマホークと中距離核弾道弾パーシングIIを配備。ハイルブロンでパーシングIIのエンジン部分が暴発し、米兵4人が死亡。偶発戦争の不安が高まる。反原発デモが頻繁に行われ、大気汚染による森林の枯死が深刻になる。このような現代地球の、ドイツの危機的な状況を認識する「女ねずみ」が鈍感で利己的な人類に、人類の自己破滅について警告するというのが本書である。
ドイツ再統一(東西ドイツの統一)以後
[編集]『鈴蛙の叫び声』(1992年)で物語られる時間は1989年11月から1991年5月頃までの、およそ1年6カ月である。舞台はダンツィヒ、偶然の積み重ねで出会い、親しくなっていった初老の男女、レシュケとピョントコフスカは、当初は穏やかに慈悲深く計画されていたのであるが、しだいに拡大され、営利第一主義の企業として発展していく「墓地教会」に裏切られる。二人は正式に結婚するが、未来予知能力のあるレシュケは再統一されたドイツの歩みとヨーロッパの行く末に対して不安を告白する。最後にナポリを見学しローマへ帰るハネムーンの途中、二人はカーブの多い崖から転落し死亡する。ドイツ再統一をポーランド側から見た作品である。グラスは生まれ故郷ダンツィヒの、ドイツマルクによる支配についての懸念を『鈴蛙の叫び声』の墓地教会を通して形象化したことによって、その後は再統一後の旧東ドイツの問題に集中することが可能となる。それ故、本書は内容的には『はてしなき荒野』の習作でもある。『蟹の横歩きーヴィルヘルム・グストロフ号事件』(2002年)では、海難事故として派手に取り上げられるタイタニック号の背後に埋もれ、ほとんど忘れ去られたかのような9千人ほどの死者を出したヴィルヘルム・グストロフ号に焦点を当てている。客船から病院船に改造され、1945年1月30日にゴーテンハーフェンから避難民や傷病兵を乗せて出航した後、ソ連潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、史上最大の海難事故となった[6]。
1999年、グラスはノーベル文学賞を受賞する[7]。「グラスは生き生きした暗い寓話で歴史の忘れ去られた側面を描き出した。『ブリキの太鼓』は20世紀の、永久に残る文学作品の一つに数えられよう」というのが、スウェーデン・アカデミーが明らかにした受賞理由である。『ブリキの太鼓』はグラスの名前を戦後のドイツ叙事文学と同義語まで高めた代表作であるが、「歴史の忘れ去られた側面を描き出した」のは何も『ブリキの太鼓』だけではなく、彼の小説のすべてがそうであると言っても過言ではない。特に少年の眼から第二次世界大戦当時のダンツィヒを描いた『猫と鼠』と『犬の年』、石器時代から現代までを歴史の背後にいる女性に焦点を当てて描いた『ひらめ』、ネズミが人類の自己破滅を警告する『女ねずみ』、テオドール・フォンターネを復活させ現代ドイツの150年を描いた『はてしなき荒野』などには、『ブリキの太鼓』と同様にいずれも「歴史の忘れ去られた側面」が描かれており、ドイツの歴史はグラス文学の本質的な基盤である。
グラスは、テオドール・アドルノの「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮だ[8]」というテーゼ(命題)を「野蛮なのはこの禁令だ、この要求は人間にとって大きすぎる、根本において非人間的である」と考え、イデオロギーではなく、懐疑を基調にしたアンガジュマンの作家として、一貫して「弱者、被害者、少数者」のベンチに坐り、勝者の背後にある忘れられた歴史に焦点を当て続けた。ドイツ再統一に際してグラスは、西側主導による迅速な東の吸収合併によって再び強大な中央集権国家になることに異議を唱え、悲願の再統一に熱狂し陶酔感に浸っている人々の気持ちを逆撫でするような『はてしなき荒野』(1995年8月28日)を発表する。現代の中に過去の狂気を嗅ぎ取り、その歴史的連続性を現在化したのである。だが、『はてしなき荒野』は公刊前後、ドイツ文学史上前代未聞のスキャンダルに見舞われる。その発端となったのはマルセル・ライヒ=ラニツキの批評である。ライヒ=ラニツキは1995年4月、自らのたっての願いによって実現したグラスの『はてしなき荒野』の朗読会で拍手喝采を惜しまず、作品の成功を保証し、グラスを祝福していたのであるが、その4カ月後、彼の態度は一変する。彼は8月21日付けの「シュピーゲル」(Spiegel ) 第34号で友人グラスに宛てた公開書簡という形式を借りて、グラスと『はてしなき荒野』を酷評したのである。その批判を要約すれば、文学的には主としてテオドール・フォンターネを範例にした、通称フォンティと呼ばれる主人公テオ・ヴトゥケに関するものである。ライヒ=ラニツキは、フォンターネは徹頭徹尾19世紀の作家で20世紀に移し替えることは不可能であり、フォンターネの作品、手紙から大量に引用されているが、引用と創作の境界が曖昧で、思想的なものを知覚できるものに翻訳できなかったことが失敗の原因で、あれこれ主張されるばかりで物語になっていなく、フォンティやホーフタラーといった登場人物も死んでいると批判する。政治的には旧東ドイツに関するもので、旧東ドイツについては同情的に扱われ肯定的であるが、その恐怖政治についてはまったく言及されておらず、ユダヤ人問題にしても旧西ドイツの反ユダヤ主義ばかりが強調され、旧東ドイツでの冷酷なユダヤ人差別については何も触れられていない、すなわちグラスは事実を歪曲し旧東ドイツを美化し過ぎていると批判する。さらに『はてしなき荒野』を一つの事件にまで拡大したのが、ライヒ=ラニツキがこの書を真っ二つに引き裂いている、同号の表紙に掲載されたモンタージュ写真である。グラスは直ちにこれに対し「表紙に本を引き裂く不快極まりない写真を載せた雑誌に独自の貢献をしたくない」と自分のインタビュー記事の掲載を拒否する。これを契機に『はてしなき荒野』[9]をめぐる内外のジャーナリスト、政治家、批評家、文学者の賛否両論及び本を引き裂くライヒ=ラニツキの行為を糾弾する発言が連日マスコミを賑わすことになる。グラスに対する攻撃はエスカレートし、24日の第二ドイツテレビ(ZDF)の「文学カルテット」で頂点に達する。この番組の中でライヒ=ラニツキは「文芸批評は評価し、判断を下さなければならない、そうしてグラスは教えられなければならないのだ。ドイツ再統一が重要なテーマであるこの本は退屈で、絶対的に無価値である」と批判する。ベルリンの壁の崩壊後、迅速なドイツ再統一に腐心してきた旧西ドイツの政財界の指導者、あるいは再統一に対して極めて高揚した精神状態にある人々の勝利者感情にとっては、この『はてしなき荒野』に表れた歴史認識は放置できないものであった。こういった国内の激しい批判とは反対に、外国からは概ね好意的な反響が返ってくる。このように『はてしなき荒野』をめぐる過熱した報道、とりわけ「シュピーゲル」の表紙の『はてしなき荒野』を引き裂くライヒ=ラニツキのモンタージュ写真と、あたかも一般読者が独自の読書体験をする前にこの本を読むに値しない、無価値なものとして拒絶する意識の形成を意図しているかのような第二ドイツテレビの「文学カルテット」での『はてしなき荒野』批判は、この書の大宣伝となり、『はてしなき荒野』はベストセラー上位に躍進する[10]。
『ブリキの太鼓』を凌ぐ5部37章781ページからなる『はてしなき荒野』は、フォンターネを愛読する妻ウテに触発され、グラスが1986年以来インドで抱いていた、フォンターネに関する作品を書く、というぼんやりとした構想がベルリンの壁崩壊という歴史的事件によって一気に具体化した作品である。最初の草案では『信託公社』というタイトルになるはずであった。『はてしなき荒野』は、「19世紀を体験した」主人公フォンティが、「私にはどうしても大きい存在になろうとするこのような出来事は本当に少しも意味を持ちません」というベルリンの壁崩壊直後に抱いた見解の正当性が、通貨統合、再統一、信託公社の清算、フリードリヒ大王の遺骸のポツダムへの帰還と急展開していくおよそ1年10カ月の間に、現代ドイツの150年を「過現未」というグラス独特の第4の時間概念で時間を自在に飛び越えたり、過去を現在に溶解させたりしながら、「ドイツでは統一はいつも民主主義を台無しにする」から過去及びポーランド人とベトナム人を標的にした現在の暴力事件を引き合いに出して「ドイツでは何も変わっていない」を経て、「私は出ていかなくちゃ、立ち去らなくちゃ、遠くへ立ち去らなくちゃならないんだ。すべてが私にこう言うのだ。いつの時代にもブーヘンヴァルトがヴァイマルの近くにある国から出て行く以外に何もないのだと。この国はもはや私の国ではない、あるいは私の国であってはならない」に至るまでに、歴史的にいかに実証されうるかというアンガジュマンの書である。壁の崩壊から通貨統合を経た東ドイツの現況に絶望した神父が「荒涼とした野原です。あざみがたくさん茂り、私の目の前に広がっています」と表現するが、「荒涼とした野原」と「あざみ」の登場はグラス文学ではこれが最初ではない。『テルクテの出会い』の中でグラスは、17世紀の、国民不在の政治を遠因とする宗教戦争中に外国勢によって蹂躙された国土を「荒涼とした野原」と呼び、小国家分立の、荒涼とし、疲弊した国土であっても逞しく芽を吹き、美しい花を付ける「あざみ」を集会に参加した憂国の情に満ちた詩人たちの「もう一つの、真のドイツ」として描いている。東ドイツの良心の代表ともいえる神父の口を借りて、統一と分割を経て再び統一されようとしている現代ドイツを統一がドイツ民族の悲願であった350年前と同じ言葉で表現しなければならない点に現代ドイツに対するグラスの憂国の情が看取される。壁の崩壊直後から西ドイツの資本家、特に不動産と建設関係の資本家が凄まじい勢いで東ドイツに進出を開始する。それはまさに資本主義社会の弱肉強食の市場原理そのものである。
フォンティはフォンターネ『エフィ・ブリースト』の老ブリーストが問題解決を延期する慣用的表現「その問題は広すぎて論じ始めたらなかなか決着がつかない[11]」という意味の“Es ist ein weites Feld”や“Es ist ein zu weites Feld”を作中至る所で用いてきた。この用語は本書のタイトル(Ein weites Feld)になっているように、本書を理解する上で極めて重要なキーワードである。グラスがフォンターネとその作品を援用しながらベルリンの壁崩壊を経て現在までのドイツの歴史150年を弱者のベンチに坐って物語る上で、ストーリーの展開に効果的に寄与する、グラスが仕掛けたキーワードである。『エフィ・ブリースト』では老ブリーストが6回この表現を用いており、エフィの夫インシュテッテンも岳父のこの口癖を一度真似している。いずれの場合も問題解決を延期する慣用的表現である。『はてしなき荒野』ではこのような表現が10回用いられている(主人公のフォンティが6回、ホーフタラーが3回、フロイントリヒ教授が1回)。このような問題解決を延期する、どっちつかずの曖昧な態度は、第一次世界大戦前、スイスのサナトリウムで7年間過ごした、トーマス・マン『魔の山』のハンス・カストルプの態度に通じるものがある。この点、カストルプの態度に対するゲオルク・ルカーチの「無為にお落ち込み、決断する力もなく、一方でセッテムブリーニに共鳴しながら、他方ではナフタのデマゴギーに対してイデオロギー的に無武備であるというような、そういう敬うべき凡庸さというものは、歴史的な罪過となるのである」という評言は、『はてしなき荒野』のフォンティに関しても正鵠を得ているように思われる。グラスは、そのような人々をこれまで状況共同構成者 (Mitläufer) として批判的に描写してきたのであるが、このような曖昧な態度のドイツ人こそが、結局はヒトラーの第三帝国とホロコースト、秘密警察国家東ドイツ、信託公社の清算による悲劇など、ドイツの歴史的罪過を生み出した元凶であると考え、最後に統一を歴史的に体験したことがあるフォンティにその不決断な態度を撤回させる。フォンティは「それはそうとブリーストは思い違いをしていました。いずれにしても私はこの野原の広さを察知できます」(広すぎて論じ始めたら決着をつけることができないというのは欺瞞で、決着をつけることができる)とブリーストを否定し、“Es ist ein weites Feld”の“Feld”(野原)が何であるか、多くの埋もれたものや忘れられたものを掘り起こしたのである。グラスが掘り起こした“Feld”は、『旧約聖書』の中の「エゼキエル書」の第37章に通じており、「主の手が私の上に臨んだ。私は主の霊によって連れ出され、広い野原の真ん中に下ろされた。そこは死骸でいっぱいであった。主は私を至る所に連れて行った。見ると、野原の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらはすっかり干からびていた」のである。すなわち『はてしなき荒野』はドイツ民族による無数の死骸を暗示しているのである。それはプロシアの軍国主義や第一次世界大戦及び第二次世界大戦時のドイツ帝国主義の犠牲者、つまり虐殺されたおよそ600万人のユダヤ人を初めとする、ジプシーや外国人、ヒトラー体制に逆らい粛清裁判によって処刑されたドイツ人などの無数の死骸であり、あるいはドイツ民主共和国の社会主義体制の下で処刑された人々の死骸でもある。さらにグラスは昨日まで保証されていた数百万人もの人々の職場を一瞬にして奪う、信託公社の清算もこの「広い野原」の延長線上にあるとみなしている。勝者のベンチではなく、犠牲者、弱者のベンチに坐ってドイツの歴史を見るグラスの姿勢は『ブリキの太鼓』から一貫しており、勝者の歴史が意識の中で習性化されている人々にとっては我慢できない書となっている。
このように『はてしなき荒野』には悲願の再統一に熱狂し幸福感に浸っている人々の気持ちとは正反対のペシミスティックな調べが一貫している。グラス自身、ヴィリー・ブラント元連邦首相が東ドイツを国家として承認し、東西ドイツが共存していく東方外交を推進したときの強力な支持者の一人で、ドイツの再統一に関しても、ドイツはアウシュヴィッツという過去があり、単純に強大化されるドイツは近隣諸国に恐怖を与えるのみである、とドイツ再統一に危惧の念を抱いていた。それではドイツが一つになることにグラスは反対なのかというと、そうではなく、当時行われていたような西側主導の迅速な東の吸収合併によってドイツが再び強力な中央集権国家になることに反対しているのであって、グラスは東ドイツを悪とみなすのみではなく、東の良い面を生かしながら、東の民主主義の成長に時間をかけて西が手を貸しつつ対等に、東西ドイツという区別ではなく、東西のそれぞれの州が独立した連邦主義国家として、来るべき欧州連合の中で、世界の中で一つの優れた範例としてしかるべき役割を担っていくべきだと考えるのである。グラスはベルリンの壁崩壊直後、ヴィリー・ヴィンクラーとの対談[12]で、ベルリンの壁崩壊という東ドイツの無血革命を評価しつつも、次の注釈を付ける。「本当は国内の民主化を先に進めて、それから国境の解放が予告されなければならなかった。」このようにグラスは、過激な清算などによる迅速な資本主義化ではなく、時間をかけて新たな問題を生じさせない旧東ドイツの改革を主張していたのである。
21世紀
[編集]2006年、グラスは『玉葱の皮を剥きながら』という自叙伝で、「17歳の時、武装親衛隊の一員であった[13]」と告白し関係者に衝撃を与えた。15歳の時、ドレスデンの新兵徴募局に行き志願する。ファナティカルな軍国主義の時代に「お国のために」兵士になり、英雄になることを夢見たり、狭く苦しい家庭環境から外に出て、広い世界で仲間と自由になれるという解放感に憧れるのは、15歳の少年にとってはごく普通のことではあるまいか。志願していたことさえ忘れていた17歳になる直前、突然召集令状が届き、数カ月激しい訓練を受けた後、武装親衛隊の戦車隊に配属される。コトブスの南、シュプレー川とナイセ川に挟まれたラオジッツ地方に投入される。ソ連軍から激しい攻撃を受け、グラスは一発も弾を撃たないうちに散弾に当たり、右大腿と左肩を負傷する。負傷後、グラスは前線から野戦病院に運ばれ、チェコのマリーエンバートで終戦を迎え、アメリカ軍の捕虜となる。わずか6カ月余りの軍歴である。この事実は長い間、グラスの心に一片の良心の呵責として存在し続けてきた。グラスは、これに関してジャーナリストのウルリヒ・ヴィケルトの「(もっと以前に)軽くそのことを言っていたら、あなたはご自分の心の重荷を軽くすることができていたのではありませんか?」という問いに「その通りです。それを今この本で行ったのです。人は遅すぎるとか、とても遅いとか言うでしょうが、私はやっと今になってそれを行うことができたのです。私を裁きたい人は、裁くがいい」と応えている。
2012年、グラスは南ドイツ新聞に発表した散文詩で、「イスラエルはその核兵器でそうでなくとも壊れやすい世界平和を危険に晒し、イランの国民を抹殺することができる最初の一撃を加えることを計画している[14]」と非難する。それに関連してドイツの潜水艦のイスラエルへの引き渡しを批判し、同時に点検不可能なイスラエルの核兵器庫のタブーにも触れる。これは驚天動地の大事件である。ホロコーストの負い目のあるドイツ人にとって、イスラエル批判はタブー視されていた。激しい批判にもかかわらず、断念と絶望に対して不死身となり、常に敗者、弱者の立場から発信し続けるグラスには、いかなるタブーも存在しなかった。過去を現代の中に嗅ぎ出し、抑圧されたものを明るみに出し、それを起こり得る危険性として認識し、意識させることによって克服しようとするのがグラスのアンガジュマン文学の精髄である。グラスの生涯は、絶対に岩は頂上にとどまらないと知りつつ、命の続く限り、繰り返し大岩を頂上めざして転がし上げていくシーシュポス[注釈 4]の労役そのものであった。
武装親衛隊所属の告白
[編集]78歳を迎えた2006年8月、自叙伝『玉葱の皮を剥きながら』において、第二次世界大戦の敗色の濃い1944年11月、満17歳でもって志願の許される武装親衛隊(陸軍・海軍・空軍は義務兵役年齢に達していないと入隊できない)[注釈 5]に入隊、基礎訓練の終了を待って1945年2月にドイツ国境に迫るソ連軍を迎撃する第10SS装甲師団に配属され、同年4月20日に負傷するまで戦車の砲手として務めた過去を数ページに亘り記述した。同月11日付け日刊紙フランクフルター・アルゲマイネのインタビューで、この記述を事実と言明した[15][16]。この言明はドイツ国内に大きな波紋を呼び、国際的に広く報道された[17]。大手ニュース週刊誌デア・シュピーゲルも同15日付で、米軍文書からその事実を確認したと報道している[18]。
自伝は注文が殺到したため公刊予定を前倒しし、同16日、ドイツ、オーストリア、スイスで出版された[19]。ポーランドの元大統領レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)[20]や与党法と正義が名誉市民の称号返上を求め[21]、グラスの出生地グダニスク市から説明要請を受けている[22][23]。またドイツのグラビア週刊誌シュテルンは表紙にグラスの顔写真と親衛隊兵士のイラストを並べ「モラリストの失墜」と見出しを掲載。大衆紙ビルトは「ノーベル賞を返還すべきだ」と主張するなど、マスコミから強い批判を浴びた。
報道によれば、文壇、歴史学者や政界で賛否両論が飛び交ったとされているが、ドイツ国内に於けるテレビ世論調査によれば七割近くはグラスへの信頼を表明[24]、主に批判側に回ったのは、グラスが一貫して支持し続けた社会民主党と対立するキリスト教民主同盟であったとする指摘[24]、ニュース専門テレビ n-tv の世論調査によれば、ノーベル賞の自主返還をすべきだとする意見も三割にとどまっている。
戦後60年以上の間、この過去の告白を拒み続けたグラスは、「それでもその重荷は、決して軽減されることはなかった」とその自伝に記し[25]、また、隠していたことを誤りであったと認めている[23]。
問題の火種となった自伝は8月下旬からベストセラーとなり出版部数は20万部を突破し、ポーランドでは批判が収束しているが[26]、グラスは、一連の抗議を懸念して12月に予定されていた「国家間の和解に貢献した人物」に与えられる「国際懸け橋賞」の受賞を辞退している[27]。取り沙汰された名誉市民の称号も、グダニスク市議会は剥奪の決議案を取り下げた。
主な作品
[編集]- 『ブリキの太鼓』(Die Blechtrommel (1959)、高本研一訳、集英社) 1972、のち文庫
- 『ブリキの太鼓』(池内紀訳、河出書房新社、世界文学全集) 2010
- 『猫と鼠』(Katz und Maus (1961)、高本研一訳、集英社文庫) 1977
- 『犬の年』(Hundejahre (1963)、中野孝次訳、集英社) 1969
- 『自明のことについて』(高本研一, 宮原朗訳、集英社) 1970
- 『局部麻酔をかけられて』(Örtlich betäubt (1969)、高本研一訳、集英社) 1972
- 『蝸牛の日記から』(Aus dem Tagebuch einer Schnecke (1972)、高本研一訳、集英社) 1976
- 『ひらめ』(Der Butt (1979)、高本研一, 宮原朗訳、集英社) 1981
- 『テルクテの出会い』(高本研一訳、集英社) 1983
- 『女ねずみ』(Die Rättin (1986)、高本研一, 依岡隆児訳、国書刊行会、文学の冒険) 1994.12
- 『ドイツ統一問題について』(高本研一訳、中央公論社) 1990.8
- 『僕の緑の芝生』(飯吉光夫訳、小沢書店) 1993.10
- 『鈴蛙の呼び声』(Unkenrufe (1992)、高本研一, 依岡隆児訳、集英社) 1994
- 『ギュンター・グラスの40年 仕事場からの報告』(フリッツェ・マルグル編、高本研一, 斎藤寛訳、法政大学出版局) 1996.1
- 『はてしなき荒野』(Ein weites Feld (1995)、林睦實, 石井正人, 市川明訳、大月書店) 1999.11
- 『私の一世紀』(Mein Jahrhundert (1999)、林睦實, 岩淵達治訳、早稲田大学出版部) 2001.5
- 『蟹の横歩き ヴィルヘルム・グストロフ号事件』(Im Krebsgang (2002)、池内紀訳、集英社) 2003.3
- 『本を読まない人への贈り物』(飯吉光夫訳、西村書店) 2007.12
- Letzte Tänze (2003)
- 『玉ねぎの皮をむきながら』(Beim Häuten der Zwiebel (2006)、依岡隆児訳、集英社) 2008.5
- 『箱型カメラ』(Die Box (2008)、藤川芳朗訳、集英社) 2009.11
参考文献
[編集]- 大羽武「ギュンター・グラス『女ねずみ』ー状況共同構成者と反啓蒙主義ー」(『ロゴスとポエジー』所収、九州大学文学部伊藤利男先生退官記念論集刊行会)1995年.
- 大羽武「ギュンター・グラス『広い野原』を読み解くー文学による歴史の相対化ー」(『藝文研究』81所収、慶應義塾大学藝文學會)2001年.
- 大羽武「ギュンター・グラス『広い野原』ー老ブリーストの決まり文句「広すぎる領域」に決着をつけたアンガジェの文学ー」(『西日本ドイツ文学』11所収、日本独文学会西日本支部)1999年.
- 大羽武「”Ein weites Feld”は『はてしなき荒野』か?」(『ドイツ文学』105所収、日本独文学会)2000年.
- 大羽武「ギュンター・グラスの『局部麻酔をかけられて』ーダンツィヒから1967年の西ベルリンへー」(『文学研究』82所収、九州大学文学部)1985年.
- 大羽武「ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』ー主題と方法ー」(『西日本ドイツ文学』1所収、日本独文学会西日本支部)1989年.
- 大羽武「ギュンター・グラス 文学と政治」(『かいろす』23所収、「かいろす」の会)1985年.
- Takeshi OBA:Thomas Mann und Günter Grass ーZwei Schriftsteller im Widerspruch zum Zeitgeistー(『西日本ドイツ文学』14所収、日本独文学会西日本支部)2002年.
- 大羽武「ギュンター・グラス『テルクテの出会い』ーバロック時代の「グルッペ47」ー」(『かいろす』36所収、「かいろす」の会)1998年.
- 大羽武「短編小説考ー森鷗外『雁』とギュンター・グラス『鈴蛙の叫び声』ー」(『西日本ドイツ文学』15所収、日本独文学会西日本支部)2003年.
- 大羽武「ギュンター・グラスー弱者のベンチに坐り続けた作家の衝撃の告白ー」(『西日本ドイツ文学』19所収、日本独文学会西日本支部)2007年.
関連文献
[編集]- 『ギュンター・グラスの世界 その内省的な語りを中心に』(依岡隆児著、鳥影社・ロゴス企画) 2007.4
- 『ギュンター・グラス『女ねずみ』論 人類滅亡のリアリティと「原子力時代」の文学』(杵渕博樹著、早稲田大学出版部、早稲田大学モノグラフ) 2011.10
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “遊戯と風刺に満ちた寓話的な作品によって、歴史の忘れられた側面を描き出した”. www.nobelprize.org. The Nobel Foundation (1999年9月30日). 2024年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月23日閲覧。
- ^ “『ブリキの太鼓』は第二次世界大戦前、戦中、戦後の三部より成り、そのうち第二部、1945年までが1979年にフォルカー・シュレンドルフ監督によって映画化され、カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を受賞したのを初め各国の映画賞を受賞する。”. www.star-ch.jp. スターチャンネル. 2024年6月22日閲覧。
- ^ “大江健三郎とギュンター・グラス”. www.goethe.de. ゲーテ・インスティトゥート. 2024年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月22日閲覧。
- ^ Dieter E. Zimmer. “Kriechspur des Günter Grass”. www.zeit.de. Die Zeit. 2024年6月22日閲覧。
- ^ “「テルクテの出会い』 Das Treffen in Telgte (1979)”. www.lab.twcu.ac.jp. 東京女子大学. 2024年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月22日閲覧。
- ^ 篠田航一『ナチスの財宝』講談社、2015年、92頁。ISBN 978-4-06-288316-0
- ^ “小説『ブリキの太鼓』などで世界的に知られるドイツのノーベル文学賞受賞作家ギュンター・グラス氏”. www.jcp.or.jp. 日本共産党 (2006年8月22日). 2010年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月22日閲覧。
- ^ 藤野寛. “『アウシュヴィッツ以後、詩を書くことだけが 野蛮なのか』”. www1.tcue.ac.jp. 高崎経済大学. 2024年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月23日閲覧。
- ^ “はてしなき荒野”. waseda.repo.nii.ac.jp. 早稲田大学. 2024年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月22日閲覧。
- ^ “はてしなき荒野”. www.otsukishoten.co.jp. 大月書店. 2024年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月22日閲覧。
- ^ Jenny Brumme. “«Es ist ein weites Feld.» Eine Sentenz im Text und ihre Übersetzungen”. www.academia.edu. 2024年6月22日閲覧。
- ^ Grass, Günter. “ドイツ統一問題について”. www.hanmoto.com. 中央公論社. 2024年6月22日閲覧。
- ^ “2006年8月、 グラスが武装親衛隊員だった”. repo.lib.tokushima-u.ac.jp. 徳島大学 (2017年9月29日). 2024年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月22日閲覧。
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- ^ “Günter Grass enthüllt„Ich war Mitglied der Waffen-SS“” (Deutsch). FAZ.net. (2006年8月11日)
- ^ “Günter Grass im Interview„Warum ich nach sechzig Jahren mein Schweigen breche“” (Deutsch). FAZ.net. (2006年8月11日)
- ^ “ノーベル賞作家グラス氏「ナチ武装親衛隊にいた」と告白”. asahi.com. (2006年8月12日)
“ナチス親衛隊所属を告白 ノーベル賞作家のグラス氏”. 共同通信. 47NEWS. (2006年8月12日)
『産経新聞』2006年8月13日「『ナチス親衛隊だった』 独ノーベル賞作家が告白
『東京新聞』2006年8月14日付「G・グラス氏『親衛隊告白』」
“Guenter Grass served in Waffen SS” (English). BBC NEWS. (2006年8月11日)
――など各社が報道した。 - ^ “SPIEGEL exklusiv: Grass räumte als Kriegsgefangener Waffen-SS-Mitgliedschaft ein” (Deutsch). デア・シュピーゲル. (2006年8月15日)
- ^ 「読売新聞」2006年8月17日付「ナチス告白・グラス氏、自伝を前倒し発売」
- ^ “Walesa attacks Grass for SS role” (English). BBC NEWS. (2006年8月14日)
- ^ 『東京新聞』2006年8月14日付「G・グラス氏『親衛隊告白』」
- ^ “ナチ親衛隊の過去告白のグラス氏、グダニスク市に説明”. CNN.co.jp. (2006年8月24日). オリジナルの2006年8月30日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “Grass admits confession 'mistake'” (English). BBC NEWS. (2006年8月23日)
- ^ a b 「東京新聞」2006年8月19日付「『独の良心』 苦悩60年」
- ^ 『読売新聞』2006年9月12日付、岩淵達治「元ナチス武装親衛隊…78歳“最後の告白” グラスの業績傷つかない」
- ^ 『産経新聞』同9月12日付「元ナチス・グラス氏への批判、ポーランドでは収束」
- ^ “グラス氏、国際賞を辞退 親衛隊所属、抗議を懸念”. 共同通信. 47NEWS. (2006年9月3日)
外部リンク
[編集]- ギュンター=グラスとその作品 - 詳細な年譜と作品紹介