グナエウス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前253年の執政官)
グナエウス・セルウィリウス・カエピオ Cn. Servilius Cn.f. Cn.n. Caepio | |
---|---|
出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | セルウィリウス氏族 |
官職 | 執政官(紀元前253年) |
グナエウス・セルウィリウス・カエピオ(ラテン語: Gnaeus Servilius Caepio、生没年不詳)は紀元前3世紀中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前265年に執政官(コンスル)を務めた。第一次ポエニ戦争の最中であり、カエピオは海軍を指揮した。
出自
[編集]パトリキであるセルウィリウス氏族の出身、セルウィウス氏族はアルバ・ロンガから最初にローマに移住した6氏族の一つである[1]。カピトリニスのファスティによれば、父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はグナエウスである[2]。紀元前252年と紀元前248年の執政官プブリウス・セルウィリウス・ゲミヌスはいとこである[3]。
紀元前203年の執政官グナエウス・セルウィリウス・カエピオは、おそらくは子か孫と思われる[3]。
経歴
[編集]カエピオが歴史記録に登場するのは、紀元前253年に執政官に就任したときである。同僚執政官はプレブス(平民)のガイウス・センプロニウス・ブラエススであった。第一次ポエニ戦争の最中であり、両執政官は共同で海軍を指揮することとなった。第一次ポエニ戦争の最中であり、両執政官は共同して海軍の作戦の指揮を執ることとなった。シケリア(シチリア)西岸のリルバイウム(現在のマルサーラ)付近での作戦は成功しなかったが、両執政官は260隻からなる艦隊を率いてアフリカ沿岸を襲撃した。ポリュビオスは、彼らは「何度も上陸は行ったが、大きな戦果はあげられなかった」[4]とするが、他方オロシウスによれば、「海岸沿い全体を荒廃させ、占領・略奪した都市から多くの戦利品を持ち帰った」とされている[5]。艦隊は帰途中に嵐に遭遇し、積載物を全て投棄しなければならなかった[4]が、この処置のおかげで、無事にパノルムス(現在のパレルモ)に帰還することができた。しかし、イタリア沿岸のティレニア海で再び嵐に遭遇し、合計で150隻が失われてしまった[6]。オロシウスは、この海難の場所をルカニアのパルヌロ岬沖であるとしている[7]。
この損失のために、ローマはしばらくの間海戦を行うことができなくなった。カエピオに関するその後の記録は、現存する資料には無い。
脚注
[編集]参考資料
[編集]古代の資料
[編集]研究書
[編集]- Geiger J. "The Last Servilii Caepiones of the Republic" // Ancient Society. - 1973. - No. IV . - P. 143-156 .
- Münzer F. "Sempronius 28" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1923. - Bd. II, 2.-S. 1368-1369.
- Münzer F. "Servilii Caepiones" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1942. - Bd. II A, 2. - Kol. 1775-1780.
関連項目
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ II アウルス・アティリウス・カラティヌス II |
執政官 同僚:ガイウス・センプロニウス・ブラエスス I 紀元前253年 |
次代 ガイウス・アウレリウス・コッタ プブリウス・セルウィリウス・ゲミヌス |