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グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス
Cn. Domitius M. f. M. n. Calvinus
出生 不明
死没 不明
出身階級 ノビレス
氏族 ドミティウス氏族
官職 護民官紀元前59年
法務官(選挙違反審問)紀元前56年
執政官紀元前53年
前執政官もしくはレガトゥス紀元前48年-46年
神祇官紀元前45年頃-前20年以降)
予定独裁官副官紀元前43年
執政官 II紀元前40年
前執政官紀元前39年-36年
担当属州 アシア属州紀元前48年-47年
ヒスパニア紀元前39年-36年
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グナエウス・ドミティウス・カルウィヌスラテン語: Gnaeus Domitius Calvinus, 生没年不詳)は、紀元前1世紀共和政ローマ期の政務官ノビレスドミティウス氏族出身で紀元前53年紀元前40年執政官を務め、ガイウス・ユリウス・カエサル及びアウグストゥス(オクタウィアヌス)の側に味方して戦った。

生涯

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カエサル派として紀元前53年に執政官に選出されたが、政治的なスキャンダルに見舞われた。紀元前49年からのカエサル派と元老院派とのローマ内戦ではカエサル側に立ち、ファルサルスの戦いでカエサル軍の中央部軍を率いて勝利に貢献した。戦後カエサルによって小アジアの統治を任されたが、ポントスボスポロス王国の王ファルナケス2世が内戦の間隙を突いて小アジアへ侵入を図り、ポントス軍と激突したが大敗を喫した。紀元前47年8月にカエサルがゼラの戦いでファルナケス2世を破り失地を回復、ドミティウスは失敗にもかかわらず処罰は受けなかったが、その後の戦いで起用されることは無かった。

紀元前44年3月にカエサルが暗殺されたが、その前後の行動ははっきりしない。紀元前42年フィリッピの戦いではオクタウィアヌス及びマルクス・アントニウス側についたが、イオニア海での戦いではグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスに敗北して2個軍団を失った。結局、フィリッピの戦いでは第二回三頭政治側が勝利を収め、ドミティウスは再度の失敗にもかかわらず、紀元前40年に2度目の執政官に選出された。紀元前39年からプロコンスルとして3年間ヒスパニア総督を務めた。

紀元前36年7月15日、凱旋式が挙行され、戦利品でもってレギアを建設した[1]。その後の足跡ははっきりしないが、碑文によると「Arval Brethren」のメンバーとしてドミティウスの名があり、この碑文に記された紀元前20年まで生存していたことは確実である。

出典

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  1. ^ MRR2, p. 36.

参考文献

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  • T. R. S. Broughton (1952). The Magistrates of the Roman Republic Vol.2. American Philological Association 

関連項目

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公職
先代
アッピウス・クラウディウス・プルケル
ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス
執政官 I
同僚:マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ルフス
紀元前53年
次代
グナエウス・ポンペイウス III
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ
先代
プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス II
ルキウス・アントニウス
執政官 II(辞任)
紀元前40年
同僚:
ガイウス・アシニウス・ポッリオ
(辞任)
補充:
ルキウス・コルネリウス・バルブス
プブリウス・カニディウス・クラッスス
次代
ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス
ガイウス・カルウィシウス・サビヌス
補充:
ガイウス・コッケイウス・バルブス
プブリウス・アルフェヌス・ウァルス