グレプ・スヴャトスラヴィチ (ブリャンスク公)
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グレプ・スヴャトスラヴィチ Глеб Святославич | |
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ブリャンスク公 | |
在位 | 1333年 - 1340年 |
死去 |
1340年12月6日 |
家名 | リューリク家 |
父親 | ブリャンスク公スヴャトスラフ |
グレプ・スヴャトスラヴィチ(ロシア語: Глеб Святославич、? - 1340年12月6日)は、ブリャンスク公スヴャトスラフの子である。ブリャンスク公(在位:1333年 - 1340年)。
生涯
[編集]1333年、ジョチ・ウルス軍と共に、スモレンスクにおいてブリャンスク公ドミトリー(ru)を攻撃するが敗北した。なお、この戦いの後、ブリャンスク公ドミトリーとスモレンスク公イヴァンとの間に和議が成立している。また同年イヴァンの支援によって、グレプはブリャンスク公位を獲得した。その後7年間、グレプはブリャンスク公国を統治した。
ブリャンスクのレートピシ(年代記)によると、キエフと全ルーシの府主教(ru)フェオグノスト(ru)の仲裁にもかかわらず、ブリャンスクのヴェーチェ(民会)によって、グレプは殺害されたと記されている。
子
[編集]グレプの子に関する史料は発見されていない。S.ヴェセロフスキー(ru)は、プスコフ公アレクサンドル(ru)はグレプの子であり、モスクワ大公国のボヤーレ(貴族)の家系であるフセヴォロジュ家(ru)もまたグレプの子孫とみなしているが[1]、これについては異説もある[2]。
出典
[編集]- ^ Веселовский С. Б. Исследования по истории класса служилых землевладельцев. — С. 331—333.
- ^ Кузьмин А. В. Фамилии, потерявшие княжеский титул.. — С. 707—713.
参考文献
[編集]- Веселовский С. Б. Исследования по истории класса служилых землевладельцев. — М.: Наука, 1969.
- Кузьмин А. В. Фамилии, потерявшие княжеский титул в XIV — 1-й трети XV в. (Ч. 1: Всеволож Заболоцкие, Волынские, Липятины) // Герменевтика древнерусской литературы. Выпуск 11. — М.: Языки славянской культуры; Прогресс-традиция, 2004.
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