ゲオルギー・ヤルツェフ
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名前 | ||||||
本名 |
ゲオルギー・アレクサーンドロヴィチ・ヤルツェフ Georgi Aleksandrovich Yartsev | |||||
ラテン文字 | Georgi Yartsev | |||||
ロシア文字 | Георгий Александрович Ярцев | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ロシア | |||||
生年月日 | 1948年4月11日 | |||||
出身地 | ニコリスコーエ | |||||
没年月日 | 2022年7月15日(74歳没) | |||||
身長 | 176cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
代表歴 | ||||||
1978-1979 | ソビエト連邦 | 5 | (0) | |||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ゲオルギー・アレクサーンドロヴィチ・ヤルツェフ(Георгий Александрович Ярцев, 1948年4月11日 - 2022年7月15日)は、現ロシア・コストロマ州、ニコリスコーエ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはFW
経歴
[編集]1948年、現ロシアのコストロマ州の小さな村ニコリスコーエで生まれた。FCテクマシュ・コトスロマ(現在のFCスパルタク・コストロマ)のアカデミー出身。
選手
[編集]1965年、FCテクマシュ・コトスロマでキャリアを始め、1970年にPFC CSKAモスクワへ移籍したが、CSKAモスクワでは怪我をしたために1試合の出場に留まった。
1975年、数クラブを渡り歩き、FCスパルタク・コストロマへの移籍を果たすと主力として活躍し、1977年にFCスパルタク・モスクワへ移籍を果たす。1978年にはソビエト連邦サッカーリーグにて19ゴールを挙げ得点王に輝いた。1982年、FCモスコヴィチにて現役から引退をした。
監督
[編集]1984年、クラスナヤ・プレスニヤでオレグ・ロマンツェフのアシスタント・コーチとして働いた。1994年には、ロマンツェフが指揮を執るFCスパルタク・モスクワにアシスタント・コーチとして招かれた。1996年にはスパルタクの監督を務めロシア・プレミアリーグで優勝を成し遂げ、自身は最優秀監督に選出された。
2003年からはロシア代表監督に就任して、2005年まで指揮を執った。2004年10月13日、2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のポルトガル代表戦では7-1の大敗を経験。ヤルツェフは6点取られた時にベンチから退いた。後にこの大敗は100年に一度の出来事だとし、説明は出来ないと語っている。2005年3月30日、エストニア代表との試合は1-1の引き分けに終わり、その試合を最後にロシア代表監督を辞任した。
人物
[編集]事件
[編集]- 2007年2月18日、スパルタクのユースでコーチをしていたヤルツェフの息子がアパートで何者かによって殺害されているのが発見された[1]。事件は未解決である。
参考文献
[編集]- Профиль на сайте «Сборная России по футболу» - rusteam.permian.ru