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サミュエル・カーティス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サミュエル・ライアン・カーティス
Samuel Ryan Curtis
サミュエル・カーティス、1862年撮影
生誕 1805年2月3日
ニューヨーク州、シャンプレイン
死没 1866年12月26日
アイオワ州カウンシルブラフス
所属組織 アメリカ合衆国陸軍の旗 アメリカ陸軍
軍歴 1831 - 1832, 1846 - 1847, 1861 - 1865
最終階級 少将
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サミュエル・ライアン・カーティス(Samuel Ryan Curtis、1805年2月3日 - 1866年12月26日)はアメリカ合衆国の軍人で、共和党員として最初に下院議員に選出された一人である。南北戦争中は北軍の将軍として、ミシシッピ川流域戦線を担当した。

経歴

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初期の経歴

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カーティスはニューヨーク州シャンプレイン近郊で誕生し、1831年にウェストポイントの陸軍士官学校を卒業した。その後オハイオ州に移動し、そこで弁護士やいくつかの民間の仕事についた。米墨戦争中には大佐に任官され、いくつかの占領都市の軍政長官を務めた。

戦後アイオワ州に移動、1856年にキアカック(Keokuk)の市長となった。1856年の下院議員選挙にアイオワ州第1選挙区から立候補し、当選した。カーティスと第2選挙区で当選したティモシー・デービス(Timothy Davis)は、最初のアイオワ州選出共和党議員となった。カーティスは1858年と1860年にも当選している。彼はエイブラハム・リンカーンを支援しており、リンカーンが大統領になった場合には、その政府の一員となると思われていた。

南北戦争

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しかしながら南北戦争の勃発により、1861年6月1日にカーティスは大佐に任官し、アイオワ第2連隊の連隊長となったため、政府の職を辞した。その後直ぐに准将に昇進した(5月17日に逆上って昇進)。

西部戦線の総司令官で合ったジョン・C・フレモントが生じさせたセントルイスでの混乱が収まった後の1861年12月25日、フレモントに代わって総司令官となったヘンリー・ハレック少将から、カーティスは南西部軍の司令官に任命された。カーティスは、アーカンソー州における北軍の勢力を固めるため、軍司令部をミズーリ州ローラ(Rolla)に置いた。1862年3月、カーティスの南西部軍は、アーカンソー北西部で起こったピーリッジの戦いに勝利した。しかし、この勝利はカーティスを高揚させることはなく、むしろ気分を沈ませた。戦闘の数日後、「そこにあったのは静謐と悲劇であった。そこはハゲワシと狼に支配されており、死んだ友人も敵の兵士も孤独な墓に眠っていた」と書いている[1]。この成功により1862年3月21日付けで、少将に昇進している。しかし悲劇的なことに、この昇進の報告が彼の手元に届いた同じ日に、20歳の長女サディーが腸チフスで病死したことを知った[2]

ピーリッジの勝利後、彼の比較的小規模な軍は東方へ移動し、アーカンソーへ侵入、7月にはヘレナ(Helena)を占領した。9月には、カーティスはミズーリ小軍管区(District of Missouri)の司令官に任じられたが、奴隷制度廃止運動に対するカーティスの見解がミズーリ州知事と問題を起こしてしまったため、リンカーンはカーティスを解任した[3]。その後、カンザス軍管区(Department of Kansas)の司令官に任命された。

1863年10月、彼の息子でジェームズ・ブラント(James G. Blunt)准将の副官であったヘンリー・ザラ・カーティス少佐が、ウィリアム・クァントリルのゲリラ部隊に襲われて戦死した。このバクスター・スプリングスの奇襲(Battle of Baxter Springs)では、ゲリラ部隊は北軍の軍服を着用しており、降伏した兵士にも慈悲を与えなかった[4]。カーティスは息子を偲んで。カンザス州の砦の一つをフォート・ザラ(Fort Zarah)と名付けた。

1864年、カーティスはミズーリに進撃していたスターリング・プライス少将の南軍と戦うためにミズーリに戻ってきた。いくつかのカンザス州の民兵連隊も含めて、彼の軍管区の兵士を集め境界軍(Army of the Border)を組織した。プライスの襲撃は、ウェストポートの戦いでのカーティスの勝利によって頓挫した。カーティスはその後、北西軍管区(Department of the Northwest)の司令官として、全く異なる軍事行動であるミネソタ南部とダコタ準州スー族とアメリカ人入植者の紛争である、ダコタ戦争の最終段階を担当した。

戦争終了後、カーティスはアイオワに戻り、死亡するまで鉄道の伸長に関係した。1866年アイオワ州カウンシルブラフスで死去、かって市長を務めたキアカックのオークランド墓地に埋葬された。

脚注

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  1. ^ Shea & Hess, p 275
  2. ^ Shea & Hess, p 290
  3. ^ National Park Service Biography
  4. ^ Boatner, p 51

参考資料

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関連項目

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外部リンク

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  • United States Congress. "サミュエル・カーティス (id: C001013)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).