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サンチョ1世 (アラゴン王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サンチョ5世から転送)
サンチョ1世 / サンチョ5世
Sancho I / Sancho V
アラゴン国王
ナバラ国王
在位 1063年 - 1094年(アラゴン王サンチョ1世)
1076年 - 1094年(ナバラ王サンチョ5世)

出生 1042年
死去 1094年6月4日
配偶者 イザベル・ドゥルジェイ
  フェリシー・ド・ルシー
子女 ペドロ1世
アルフォンソ1世
ラミロ2世
家名 ヒメノ家
王朝 ヒメノ朝
父親 ラミロ1世
母親 エルメシンダ・デ・ビゴーラ
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サンチョ1世(1530年代画)

サンチョ1世スペイン語Sancho I, 1042年頃 - 1094年6月4日)は、アラゴン王国国王(在位:1063年 - 1094年)、後に兼ナバラ(ナバラ王としてはサンチョ5世、在位:1076年 - 1094年)。サンチョ・ラミレスSancho Ramírez)とも呼ばれる。アラゴン王ラミロ1世の息子。

生涯

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1063年、父がタイファイスラム教国)の1つ・サラゴサ王国カスティーリャの連合軍に敗れ戦死、アラゴン王位に即いた。

1064年ローマ教皇アレクサンデル2世がイスラム教に対する十字軍を招集するとすぐさま応じ、バルバストロアキテーヌ公ギヨーム8世らが参加した十字軍に陥落させられた(ただしアラゴンは関与せず)。サンチョ1世は戦後教皇を始め西欧との結び付きを深め、1068年に教皇への臣従を宣言、1071年にローマ式典礼を用い、1077年1088年には教皇グレゴリウス7世ウルバヌス2世にも臣従して教皇の後ろ盾を得た。また自身の再婚を通しフランス貴族と姻戚関係を築き、彼等のスペイン流入を促した。こうしてフランスから来たレコンキスタに向かう貴族らの助けで、サンチョ1世は1083年グラウス1089年モンソン征服など領土拡大を進めた[1][2]

しかし1067年、2人の従兄弟でカスティーリャ王サンチョ2世とナバラ王サンチョ4世が争い、劣勢のサンチョ4世に助けを求められサンチョ1世はサンチョ2世と戦った(三サンチョの戦いスペイン語版)が、ナバラ・アラゴンは敗れカスティーリャがナバラから領土を一部奪い取った[3]

1076年、ナバラ王サンチョ4世が弟によって暗殺されるとすかさず攻め入った。サンチョ1世は同じく王位を求めてナバラに侵入したカスティーリャ王アルフォンソ6世(サンチョ2世の弟)を破り、サンチョ5世としてナバラ王に即位したのである[1][4]。一方サンチョ4世の王子ガルシアも亡命先のカスティーリャ=レオン王国でナバラ王即位を宣言したが、領土を奪還することはできなかった。

ナバラ王に即位してからは都市成立にも手を貸し、ハカに司教座を設置、翌1077年にフエロを与え外国人や商人・職人定住を図った。だが宿願である領土拡大は継続、南と西に征服を推し進め、1094年にウエスカを包囲、同年6月4日に包囲中に死去した。王位に即いた長子のペドロ1世がウエスカ包囲を続け、2年後の1096年11月21日に降伏させた[1][5]

家族

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1065年頃にウルジェイ伯アルメンゴル3世の娘イザベルと結婚し、1男をもうけたが、1071年離婚した。

  • ペドロ1世(1068年頃 - 1104年) - アラゴン・ナバラ王

1076年にルシー伯イルドゥアン4世の娘フェリシーと結婚し、2男をもうけた。

脚注

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  1. ^ a b c 関、P206。
  2. ^ ローマックス、P77 - P78、P82 - P83、P87、芝、P76、P81 - P82、P175 - P176、P191、西川、P112 - P113。
  3. ^ ローマックス、P82 - P芝、関、西川、P92 - P93。
  4. ^ バード、P64 - P65、ローマックス、P255 - P256、西川、P113 - P114。
  5. ^ バード、P80 - P81、ローマックス、P110 - P111。

参考文献

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関連項目

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先代
ラミロ1世
アラゴン
1063年 - 1094年
次代
ペドロ1世
先代
サンチョ4世
ナバラ
1076年 - 1094年
次代
ペドロ1世