ザップ (音楽グループ)
ザップ Zapp | |
---|---|
出身地 | オハイオ州 |
ジャンル | ファンク、ソウル、R&B、ドゥーワップ、スウィート・ソウル、ジャズ |
活動期間 | 1977年 - 1999年。2003年 - |
メンバー |
レスター・トラウトマン テリー・トラウトマン グレゴリー・ジャクソン ボビー・グローヴァー |
旧メンバー |
ロジャー・トラウトマン ラリー・トラウトマン トーマス・トラウトマン ロジャー・トラウトマン・ジュニア |
ザップ (Zapp) は、ロジャー・トラウトマンが中心となり、レスター、ラリー、テリーらトラウトマン兄弟を中心として1970年代に結成されたアメリカ合衆国のファンク・バンドである。
歴史
[編集]トラウトマン兄弟はオハイオ州ハミルトン出身。デイトンでバンド活動を続けていた頃、幼なじみであったブーツィー・コリンズの紹介でジョージ・クリントンに見いだされる。ロジャーたちはPファンクの前座として経験を積んだ後、1980年にデビューを実現した。特にトーク・ボックスを自在に操るロジャーのヴォーカルは独特のもので、21世紀に至るまで後進に影響を与え続けている。
ファースト・アルバムには「モア・バウンス・トゥ・ジ・アウンス」が収録され、同曲はR&Bチャートで2位となり、アルバムはゴールド・ディスクに認定された[1]。また、セカンド・アルバムには「ドゥー・ワ・ディティ」[2]などの曲が収録された。また81年にはロジャーのソロ・アルバムが発表され「悲しいうわさ」「ドゥ・イット・ロジャー」「ソー・ラフ、ソー・タフ」などのファンク・ナンバーがソウル・チャートでヒットした。「悲しいうわさ」はマーヴィン・ゲイのカバーである。ロジャーとザップは、この後もウィルソン・ピケットやミラクルズなどの曲をカバーした。1980年代を通してザップはコンスタントにアルバムを発表し、一時はジェームス・ブラウンやPファンクの後継者はロジャーとプリンスであるとも見られた。1980年代末から90年代前半には、サンプラーの普及により、1980年代のザップのレコードが若いラップ世代の音楽製作の素材になり始めた。ロジャーは、1990年にはバンドで稼いだ資金をもとに建設会社を創業したが、これが仇となった。建設会社は多額の負債を抱えて倒産し、兄弟間に亀裂が入り始める。バンドの活動も、アフリカン・アメリカン音楽の主流がヒップホップに移っていったことや音楽性の行き詰りで、1980年代ほどの勢いを継続出来なくなった。ただし来日公演は何回も行っていた。
破局は1999年の4月に訪れた。ザップの元メンバーであったラリー・トラウトマンが、金銭上のトラブルからロジャーをショットガンで射殺し、自らも自殺してしまったのである。リーダーを失ったザップは99年に解散。その後、テリーがロジャー譲りのトーク・ボックスをプレイし、ZAPP名義での通算6作目のZAPP VIをリリース。ライブを中心に活動している。
1990年代にザップの日本でのプロモーターだったM&Iカンパニーの社員は、ロジャーはバンドのメンバーに厳格なルールの遵守を求め、バンドマンにありがちな自堕落な行動は許さなかったと証言した。その一方でユーモアに富んだ人物でもあり、M&Iカンパニーの社員たちからは尊敬と敬愛の念を持って見られていたという。
ディスコグラフィ
[編集]- Zapp (1980)
- Zapp II (1982)
- Zapp III (1983)
- The New Zapp IV U (1985)
- Zapp V (1989)
- Zapp VI: Back By Popular Demand (2002)
関連項目
[編集]- スライ&ザ・ファミリー・ストーン
- クール&ザ・ギャング
- オハイオ・プレイヤーズ
- ジョージ・クリントン
- パーラメント
- ファンカデリック
- ジェームス・ブラウン
- ロジャー・トラウトマン
- グラハム・セントラル・ステーション
- ファンク
- トーキング・モジュレーター
脚注
[編集]- ^ RIAA Gold & Platinum Database ザップ RIAA ゴールド. Riaa.com, Retrieved 2021-8-5
- ^ ドーワディティ 2021-8-5閲覧
外部リンク
[編集]- ワーナーミュージック・ジャパン - ザップ
- BIGG ROBB
- Dayton Project
- HEAVY FUNK SYSTEM - ZAPP & ROGER の巻
- S1のページ - Interview with Roger Troutman