コンテンツにスキップ

ダービー (イギリス)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シティ・オブ・ダービー

City of Derby
イングランドの旗
上:ダービーのスカイライン 下左:クワッド・ダーボン 下右:ダービー大聖堂(英語版)
上:ダービーのスカイライン
下左:クワッドダーボン
下右:ダービー大聖堂英語版
標語: 
勤勉、勇気、強さ[1]
: Industria, Virtus, et Fortitudo
イングランドとダービーシャーにおけるダービー
イングランドとダービーシャーにおけるダービー
シティ・オブ・ダービーの位置(イングランド内)
シティ・オブ・ダービー
シティ・オブ・ダービー
イングランドとダービーシャーにおけるダービー
シティ・オブ・ダービーの位置(イギリス内)
シティ・オブ・ダービー
シティ・オブ・ダービー
シティ・オブ・ダービー (イギリス)
北緯52度55.32分 西経1度28.55分 / 北緯52.92200度 西経1.47583度 / 52.92200; -1.47583
主権国家 イギリス
構成国 イングランド
リージョン イースト・ミッドランズ
典礼カウンティ ダービーシャー
定住 西暦600年
シティ 1977年
政府
 • 種別 単一自治体シティ
 • 統治組織 ダービー市議会
 • 行政府 Leader & Cabinet
 • 下院議員 マーガレット・ベケット労働党
クリス・ウィリアムソン英語版労働党
面積
 • 合計 78.03 km2 (30.13 mi2)
人口
(2021年)[2]
 • 合計 261,364人
 • 密度 3,349人/km2 (8,670人/mi2)
 • 人種構成
国家統計局の2005年の推計)[3]
85.8% 白人
8.9% アジア系
2.2% アフリカ系
1.1% 中国系、その他
2.0% 混血人
等時帯 UTC+0 (グリニッジ標準時)
郵便番号範囲英語版
DE1, DE3, DE21-24, DE73
市外局番 01332
Grid Ref.英語版 SK3533936187
ONSコード英語版 00FK
ISO 3166-2 GB-DER
NUTS 3 UKF11
住民の呼称 Derbeian
ウェブサイト Derby City Council” (英語). 2011年7月23日閲覧。

ダービー: Derby[ˈdɑːrbi] ( 音声ファイル) DAR-bi)は、イングランド中部ダービーシャーの行政中心地となっている工業都市[4]

概要

[編集]

1977年よりシティ、1997年より単一自治体。 単一自治体としての人口は2009年時点で 244,100 人あり、微増傾向にある[5]

ダーウェント川に沿うこの地は、古くから交通の要衝とされてきた[4]ローマン・ブリテン時代には現在の町の北東にローマ軍の砦が築かれ[4][6]七王国時代には既に町の前身が知られ[7]、9世紀のデーンロウ時代には五市地方のひとつとなった[4][6]。地名Derbyの由来はデーン人の話していたことばである古ノルド語Djúra-býで「鹿牧場」を意味する[8]

現在の町の起源はノルマン時代市場町ともされる[7]。18世紀初頭にイギリス初の機械式生糸工場がここに建てられ[6]、これが工業化の端緒となった[4]

産業革命以降は鉄道交通の結節点として発展した[4]。近代初期には毛織物、ビール[7]、19世紀には紡績、印刷、陶磁器、20世紀には航空エンジン、発動機、鉄道車両の生産で知られた[9]

哲学者ハーバート・スペンサー、画家ジョセフ・ライトらの生地である[4][6]

ダービーないしダービシャーと、競馬のクラシック競走「ダービー」を創設したスタンリー家(ダービー卿)との間に、関連性はないとする説[10]とあるとする説[11]の両方がある。

地理

[編集]

位置

[編集]

ペニン山脈南端[6]、ミッドランド低地北縁に位置し[4]ダーウェント川英語版西岸に接する[6]

地域

[編集]

行政区画

[編集]

ダービーは 17 の区からなる[12]

綴り 範囲
アビイ Abbey ストックブルック、ノルマントン英語版(の一部)
アレスツリー Allestree アレスツリー英語版マーキートン公演英語版
アルバストン Alvaston アルバストン英語版、クルートン、リチャーチ英語版プライド・パークウィルモートン英語版アレントン英語版(の一部)
アーボリータム Arboretum 市の中心部、ピア・ツリー英語版ローズ・ヒル英語版
ブラグリーブス Blagreaves サニー・ヒル英語版リトルオーバー英語版(の一部)
ボールトン Boulton ボールトン英語版アレントン英語版(の一部)
チャッデスデン Chaddesden チャッデスデン英語版(の旧地域)
チェラストン Chellaston チェラストン英語版シェルトン・ロック英語版
ダーリー Darley ダーリー・アビイ英語版、ファイブ・ランプス、リトル・チェスター英語版(チェスター・グリーンとも呼ばれる)、ストラッツ・パーク、ウェスト・エンド
ダーウェント Derwent ブレッゾール・ヒルトップ、チャッデスデン英語版(の新地域)
リトルオーバー Littleover リトルオーバー英語版(の殆ど)、ヘザートン・ビレッジ英語版
マックワース Mackworth マックワース・エステート英語版、 モーリー・エステート
ミックルオーバー Mickleover ミックルオーバー英語版
ノルマントン Normanton ノルマントン英語版(の殆ど)、オースティン・エステート
オークウッド Oakwood オークウッド英語版チャッデスデン英語版(の一部)
シンフィン Sinfin シンフィン英語版オスマストン英語版 and ステンソン・フィールズ英語版(の一部)
スポンドン Spondon スポンドン英語版

人口

[編集]

人口の変遷

[編集]
人口[13]
1801 14,695
1851 48,506
1901 118,469
1921 142,824
1941 167,321
1951 181,423
1961 199,578
1971 219,558
1981 214,424
1991 225,296
2001 221,716
2011 248,700

隣接自治体

[編集]

歴史

[編集]

起源

[編集]

町は、ローマン・ブリテンアングロ・サクソン・イングランド英語版デーンロウの起源を持つ。

ローマ時代には、現在の町の北東にあたるリトル・チェスター英語版にローマ軍の拠点デルベンティオ[4](ダーヴェンティオ[6])が置かれた[14]

デーンロウ時代には、この地は五市地方(イースト・ミッドランズに築かれた 5 つの主な城塞都市)の一つとなった[4][6]。9世紀のデーン人たちはここを Deoraby と呼び、これが現在の地名の起源となった[15]。Deoraby は古スカンジナビア語で djúr + bý すなわち「鹿が飼育される農場あるいは村」を意味する[16]。この一帯は "Norþworþig"("Northworthy" = 「北の囲まれた土地」)および "Deoraby" と呼ばれ、それらはダービーの "Irongate" 側(北側)にあった[17]。2004年に行なわれたダービーの歴史学的・考古学的調査によると、ヴァイキングとアングロサクソンは水に囲まれた 2 つの地域で共存していた可能性がある。

アングロサクソン年代記』(900年頃)には「ダービーは水で分かたれている」とある。『ドゥームズデイ・ブック』(1086年)には既に Derby という名が見える[16]。近代初期の地図(例えばスピードによる1610年の地図)には Darby あるいは Darbye という名が現れている。

イングランド内戦期

[編集]

愛しのチャールズ王子

[編集]

1642-1646年のイングランド内戦の間のダービーは、1643年にダービーの統治者に任命されたジョン・ゲル英語版の指揮する議会軍が駐屯した。この軍は近くのノッティンガム防衛戦、リッチフィールド攻城戦ホプトン・ヒースの戦い英語版、その他ノッティンガムシャースタッフォードシャーチェシャーでの多くの戦闘に参加し、ダービーシャーを国王軍から守ることにも成功した。

カシドラル・グリーンにある“愛しのチャールズ王子”像

百年後の1745年、「愛しのチャールズ王子」ことチャールズ・エドワード・ステュアートジャコバイトの支持を得てイギリス王位継承権を主張し、スコットランドで蜂起した。南下したチャールズの軍勢は12月11日ダービーに達し、ロンドンはパニックに陥った[18]。チャールズはデヴォンシャー公が本営を構えていたアイロンゲートのジョージ・イン英語版に立ち寄り、自らの兵士 9 千人の宿舎を要求した。

チャールズはエクセター・ストリートのエクセター・ハウス英語版に宿泊し、そこで作戦会議を開いた[19]。この時点で既に補給は途切れ[20]、またイングランドでの同調者は殆ど無く、フランスとの連携も充分でなかった[18]。チャールズは軍を進めるつもりでいたが、部下の将校たちは反対した。彼はダービーの南ほんの 2-3 マイルにあるトレント川スワークストーン橋英語版で進軍を断念した。彼は自らの流儀の証しとして、スコットランドからの行軍では縦隊の先頭に立って歩いていたが、今度は薄汚れ疲れきった兵士たちの末尾を馬に乗って帰途についた。

産業革命

[編集]
ダービーの眺望』(1725年頃)

ダービーとダービーシャーはイギリスの産業革命の中心地だった。1717年に立てられたロウムズ・ミル(現在の産業博物館)はイギリスで初めての水力式製糸工場である[6]。この工場では、ジョン・ロウム英語版イタリアピエモンテから持ち帰った製糸技術が使われた。

1750年[4][7][15](あるいは1755年[6])には、ドイツとフランスから伝わった技術をもとに[21]ウィリアム・ドゥーズベリらによって[7]ダービー磁器が作られ始めた。

1759年、ジェディダイア・ストラット英語版はダービー・リブ・アタッチメントという機械の特許を取り、これを製造したが、この機械は靴下の製造に革新をもたらした。この機械はリー牧師の靴下編み機英語版に取り付けて使われた。すなわちリーの編み機の手前側に取り付け、互いに同調して作動し、畝のついた靴下を製造した。共同経営者はジュディダイア・ストラット、ウィリアム・ウラットであり、1758年にはダービーの有力な靴下製造業者だったジョン・ブラッドワースとトーマス・スタフォードが加わった。この特許は1759年1月に取得された。3年後、ブラッドワースとスタフォードは事業から外れ、ノッティンガムの靴下製造業者サミュエル・ニードが共同事業に加わった。この会社はニード・ストラット・アンド・ウラットと呼ばれた。特許は1773年に切れたが、共同事業は1781年にニードが没するまで続いた。

ダービーに関連したその他の著名な18世紀の人物には、ジョンソン辞典英語版を編纂し1735年にサン・ワーバラ教会英語版エリザベス・ポーター英語版と結婚したサミュエル・ジョンソン、革新的な明暗法で知られロイヤル・アカデミーの準会員でもあったジョセフ・ライト(ライト・オブ・ダービー)、有名な時計職人英語版であり哲学者でもあったジョン・ホワイトハースト、が挙げられる。医師・科学者・哲学者でありチャールズ・ダーウィンの祖父にあたるエラズマス・ダーウィンスタッフォードシャーに居を構えていたが、頻繁にダービーを訪れ、ダービー哲学会を設立した。

19世紀に入ると、ロシアに工作機械を輸出したジェームズ・フォックス英語版のような機械製作者らと共に、ダービーは工学技術の中心都市として台頭した。

1840年、ノース・ミッドランド鉄道英語版はダービーに工場(ダービー鉄道製作所英語版)を設置し、のちにミッドランド・カウンティーズ鉄道英語版バーミンガム・アンド・ダービー・ジャンクション鉄道英語版と共に合併してミッドランド鉄道となった時、ダービーはその本拠地となった。

この鉄道に関連して、アンドリュー・ハンディサイドチャールズ・フォックス英語版、その息子フランシス・フォックス英語版の仕事を挙げることができる。

ダービーは1835年の1835年地方自治法英語版で再編成されたバラのひとつであり、1888年地方政府法英語版カウンティ・バラ英語版となった。このバラは1877年にリトル・チェスター英語版リチャーチ英語版を合併し、1890年にはニュー・ノルマントンとロウディッチを合併した。

ダービーはイギリスの中でも海から最も遠い地域のひとつだが、海難防止の歴史において特別な意味を持っている。すなわち満載喫水線(およびその他の海難防止の枠組み)に関する法案を提出したのは、ダービーから選出された国会議員サミュエル・プリムソル英語版だった。これは初回の提出では否決されたが、1876年に可決され、プリムソルの国会議員再選に貢献した。

20世紀から今日まで

[編集]

ダービーは労働運動史においても特別な意味を持っている。なぜなら1900年の総選挙において、結成されたばかりの労働党が獲得した 2 議席のうちの 1 つがダービーだったからである。(もう 1 つはマーサー・ティドビルケア・ハーディ。)その国会議員は、全国鉄道・海運・輸送従事者組合英語版の書記長リチャード・ベル英語版だった。ベルは1910年にジェームズ・ヘンリー・トーマス英語版に議席を奪われ、トーマスは1936年に著名な博学者にしてノーベル賞受賞者フィリップ・ノエル=ベーカーに議席を奪われた。

1907年にロールス・ロイスがダービーに自動車と飛行機の工場を開くと、町に工業景気が沸き起こった。1923年、ミッドランド鉄道はロンドンに本拠を置くロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道の一部となった。しかしダービーは、クルー英語版ウルバートン英語版に次ぐ主要な鉄道製造の中心地であり続けた。加えて、設計と開発の中心地でもあり続け、1930年代にはジョサイア・スタンプ英語版の指揮の下、ロンドン・ロードにLMS科学研究所英語版が開かれた。

第一次世界大戦の時には、ダービーはドイツツェッペリン爆撃機の標的となり、1916年の爆撃で 5 人が犠牲となった。

1927年には、それまで教区教会だったオール・セインツ教会が大聖堂となり[1]、ダービーがいよいよシティ・ステータスとなる準備が整った。

1920年代から1930年代のスラムの浄化によって、ダービーの中心地域の人口過密は緩和された。多くの世帯が、郊外の公営住宅英語版や戸建の家に移り住むことになったからである。転居、公営住宅や戸建住宅の建設は、1945年の第二次世界大戦終結まで約30年にわたり大きな規模で続いた[22]

鉄道と航空機エンジンの生産地という点で戦略的に重要な工業地であったにもかかわらず、ブリストルフィルトン英語版に比べると、ダービーは両世界大戦で相対的に被害が少なかった。その幾分かの要因として、ドイツのラジオ電波誘導システム(X-Verfahren と Knickebein)に対する妨害を挙げることができるだろう。すなわち、迷彩や囮の仕組み(スターフィッシュ・サイト英語版)が主にフォアマーク英語版近くの野原など、町の南部に作られた[23][24]

鉄道産業での製造と修繕は続いていた。1948年にダービー鉄道製作所英語版は初のディーゼル機関車 "Number 10000英語版" を世に送り出し、1958年にはディーゼル車のみの生産に完全に切り替わった。一方ダービー客貨車製作所英語版は最初の気動車を生産し、後に同種の車はこれに置き換えられていった。

1964年には鉄道工学のあらゆる側面をその基礎理論から研究するイギリス鉄道研究局英語版が開かれた。その最初の成果は、貨物列車の信頼性と速度の劇的な改善に現われ、これがAPTの開発につながった。

ダービーは1967年にダービー・カウンティFCの監督としてブライアン・クラフを迎えて以降、スポーツでも世界的に名を知られるようになった。

1968年、地方政府区域委員会 (Local Government Boundary Commission) の勧告により、ダービーはサウス・イースト・ダービーシャー英語版レプトン英語版ベルパー英語版の郊外地域の大部分を合併した。これにより、1961年には 132,408 人だった人口が1971年には 219,578 人に倍増した[25]

町の中心部の様相は、1968年に新しい内環道がダーウェント川英語版を新たに 2 箇所またがる形で建設され、変化した。内環道は、セント・アルクムンド教会英語版と(ダービーで唯一となるジョージ王朝時代英語版の一角となる)教会の隣接墓地英語版を通ることになり、いずれも道路建設のため取り壊されたが、これには今日でも批判の声がある。ダービーシャーに関するニコラウス・ペヴズナーの著作の第2版で編集者を務めたエリザベス・ウィリアムソンはこう書いている。「…中心街の特徴と結びつきは、そこの18世紀の建物を大量に取り壊し、複数車線道路に変えたことで一変してしまった。これは道路計画としては大成功と言われているが、町の景観という点では破壊的である。」

1977年6月7日、ダービーはエリザベス2世在位25周年英語版の節目として、女王からシティ・ステータスを与えられた[26]。1977年7月28日、国会議事堂の壇上において、女王は当時の市長ジェフリー・ティエ(保守党)に手ずから認可状 (charter scroll) もしくは勅許状 (letters patent) を手渡した[27]。それまで、ダービーは大聖堂がありながらシティ・ステータスを得ていない、数少ない町のひとつだった。

ダービーはイギリスにおける聾文化の重要な中心地となっている。手話使用者の大きなコミュニティがあるため、多くの聴覚障碍者がダービーに移り住んでいる。全国平均に比べると、ダービーの聴覚障碍者人口は少なくとも 3 倍に達すると見られる。人数で見ると、ダービーを上回るのはロンドンだけである。アッシュボーン・ロードにある王立聴覚障碍者学校 (The Royal School for the Deaf) は手話英語の教育を行なっている。

ダービーはフェアトレード・シティとして認定されている。

政治

[編集]

行政

[編集]

鉄道事故調査委員会英語版はダービーにあるザ・ワーフという施設に本部を構えている[28]。 同委員会は 2 つある運行センターのうち 1 つをダービーに置いている[29][30]

市章

[編集]

ダービーの市章はダービー・ラム(雄羊)であり、これをテーマにした「ザ・ダービー・ラム英語版」というフォークソングもある。この名前は多くの所で目にすることができるが、ダービー・カウンティFCのニックネームとして最も親しまれている。市議会の各部門が使う紋章は様式化された雄羊だが、デヴォンシャー公からもたらされた雄羊はメルシャン連隊英語版のマスコットになっている。この連隊は、第95歩兵連隊英語版に由来するかつてのウスターシャー・アンド・シェアウッド・フォレスターズ連隊英語版である。

議会

[編集]

近年のダービーシャーの中心都市はマトロック英語版になっているが、伝統的な取り決めにより、ダービーはダービーシャーのカウンティ・タウンとなっている。

市議会

[編集]

1997年4月1日、ダービー市議会は再び単一自治体になり、ダービーシャーの残りの地域はマトロックが統括することになった。(1974年まではカウンティ・バラ英語版として単一自治体だった。)

対外関係

[編集]

姉妹都市・提携都市

[編集]
姉妹都市
提携都市

豊田市

[編集]

豊田市は1998年(平成10年)11月16日に同市と共に、ダービーシャー州南ダービーシャー市英語版と姉妹都市提携を結んだ。これは1989年、南ダービーシャー市バーナストン地区にトヨタ自動車の現地法人が設立されたことを契機とするものである[31]。姉妹都市提携以降、文化事業での相互交流などを継続的に行なっている[32]

オスナブリュック

[編集]

ダービーはドイツオスナブリュック姉妹都市関係を結んでいる。二都市間のこの協定は、1976年2月17日に結ばれた。

ダービーとの姉妹都市協定は1976年にオスナブリュック市庁舎の「平和の間」で調印された。ダービーとオスナブリュックは毎年、相手の町で12ヶ月を過ごす使節を一人選ぶ。その使節は両都市間の意見交換を促進し、姉妹関係がより周知されるよう教育および広報の担当者として活動する。使節は地元の集会や学校で講演を行なったり、文通相手や実習学生の短期ホームステイ先を探したり、姉妹都市関係への参画を希望するグループのためにペアとなり得る相手を見つけて交渉したり、毎年の年度末旅行を計画したりする。

エトウォールのジョン・ポート・スクール英語版と、姉妹校である オスナブリュック地方英語版メレのギムナジウム・メレの吹奏楽団は毎年交流を行なっている。2009年からは、アレスツリーのウッドランズ・コミュニティ・スクール英語版とオスナブリュックのギムナジウム・アンゲラシューレも交流を行なっている。これは両校が2009年6月に行なった演劇プロジェクトに基づくもので、両市の公演では 1,600 人以上の観衆が集まった。

2 つの市同士で使節を交換するというのは、非常に珍しいものである。オスナブリュックに滞在する使節は毎年交代し、オスナブリュックもダービー、アンジェ、チャナッカレに使節を派遣している。ドイツでこうした使節の交換を行なっている都市は他に無く、イギリスの他の例は唯一、ウィガンが使節の派遣と受け入れをしているだけである。

経済

[編集]

主な産業として、航空エンジン(ロールス・ロイス)、自動車(トヨタ)、磁器(ロイヤルクラウンダービー)、鉄道車両(ボンバルディア)、合成繊維などが挙げられる[4][6][7]

第二次産業

[編集]

工業

[編集]

ダービーの 2 大企業、ロールス・ロイス・ホールディングストヨタ自動車は工学関連の製造業者である。

ロイヤルクラウンダービーは、その高品質の磁器で世界的に名が知られ、広さ 0.02km² の工場で約200人の従業員が磁器製作に携わっている[33]

他に特筆すべきものとして、ダービー客貨車製作所英語版鉄道車両を生産するボンバルディア・トランスポーテーション、発電所用のボイラー熱交換器を生産するアルストムが挙げられる。

ダービーは長年にわたり鉄道輸送の中心地であり、かつてミッドランド鉄道の本拠地が置かれ、またイギリス国鉄の工場と研究所も置かれた。 年を経てその重要性が低下したとはいえ、ダービーではまだ鉄道車両の生産が続いており、ダービー駅英語版は鉄道網において未だ重要な位置を占める。 ダービーにはナショナル・レール・センターが置かれることになった[34]

1922年からシンフィン・レインにはインターナショナル・コンバッション英語版の 0.25km² にわたる本社があった。この会社は元はボイラーに粉砕燃料を自動的に送り込む機械を製造し、後に発電所の発電機で使われる蒸気ボイラーを製造した。 1990年代にロールス・ロイス・ホールディングス に買収されたが、後にアセア・ブラウン・ボベリに売却された[35]

第三次産業

[編集]

サービス業

[編集]

インターネットおよびテレフォン・バンキングを扱う Egg英語版 はダービーにイギリス本社を置いている。

コンピュータ・ゲーム『トゥームレイダー』を開発したコア・デザイン英語版はかつてダービーにあった。 これにちなみ、新しく作られた内環道の一部はゲームのヒロイン名から「ララ・クロフト・ウェイ」と名付けられた。

情報通信

[編集]

マスメディア

[編集]

新聞社

[編集]

ダービー・テレグラフ英語版』(以前のダービー・イブニング・テレグラフ)はダービーの日刊新聞である。 これ以外に、無料新聞の『ダービー・エクスプレス』が各戸に毎週配られる。 以前の無料週刊新聞『ダービー・トレーダー』は、今では発行されていない。 日刊の無料パンフレット『メトロ』はシティ・センターで毎朝配布されるが、ダービーに関する記事は非常に少ない。 他の地元紙には、火曜日に発行される週刊のダービーシャー・タイムズ英語版があり、主にカウンティ北部のニュースを扱っている。

放送局

[編集]

BBCラジオ・ダービー英語版は、ダービーシャースタッフォードシャーを対象とした BBC のローカル放送局であり、ダービーのサン・ヘレンズ・ストリートに置かれている。 地元、国内、および海外の、ニュース、特集、音楽、スポーツ中継を放送している。週あたり 15 万人のリスナーがおり、周波数は 104.5 FM、1116 AM、北部・中部ダービーシャーでは 95.3 FM、バクストン地域では 96.0 FM であり、インターネットでのストリーミング放送も行なっている。 BBC はダービーで地元向けのウェブサイト[36]を開いており、ニュース、観光情報、天気予報、その他の特集を掲載している。 2007年8月以降、BBC はダービー市議会およびダービー大学英語版と共同し、BBCビッグ・スクリーン英語版・プロジェクトの一環として、マーケット・プレイスにビッグ・スクリーン・ダービーを設置した。

教育

[編集]
古くからのカレッジ

イギリスの殆どの地域と同様、ダービーには選択試験の無い公立初等中等教育機関がある。 児童は幼児学校と初等学校(あるいは双方を兼ねた小学校)に通い、次いで総合中等学校へ通う。義務教育を16歳で終えた後、Aレベル試験を受けてさらに教育を続けられるよう、総合中等学校の多くには第6学年級英語版がある。 ダービー・カレッジ英語版はカウンティ各地の学校と協定を結び、学外での教育を希望する14歳以上の生徒に職業訓練の機会を提供している。これはカウンティで最も大規模かつ成功しているカレッジのひとつであり、学校卒業者、見習い職人、および雇用者に関わる訓練を、学内および雇用者自身の職場で、16歳以降向けのコースとして実施している。会社向けの訓練は、企業立大学を通じて行なわれている。

公立学校以外では、4 つのインデペンデント・スクールがある。 ダービー・グラマー・スクール英語版は1994年に設立され、元は男子校だったが、2007年からはまず第6学年級に女子を受け入れるようになった。これはイングランド最古の学校の一つでありながら1989年に閉校したかつてのダービー・スクール英語版の役割と伝統を継続しようとするものである。 ダービー・ハイ・スクール英語版は中等教育では女子校だが、初等教育では共学となっている。 オックブロック・スクール英語版は3-18歳の女子、3-11歳の男子が通うインデペンデント・スクールである。トレント・カレッジ英語版エルムス・スクール英語版ロング・イートン英語版にあり、3-18歳の生徒が通う。マイケル・ハウス・ステイナー・スクールはシプリー英語版にあり、幼児学校から16歳までの生徒が通う。

大学

[編集]

ダービー大学英語版は主となるキャンパスをケドレストン・ロードに置いており、ダービーシャー北部のバクストンにも別のキャンパスがある。

2003年にノッティンガム大学ロイヤル・ダービー病院英語版医学部英語版を開設した。同大学はロンドン・ロード・コミュニティ病院英語版に看護産科学部も開いているが、こちらは2012年半ばにロイヤル・ダービー病院英語版に移転する予定である。

ダービー・カレッジ英語版はダービー・シティ・センターで職業訓練とAレベル試験向けの教育を行なっている。 そこには地元の画家ジョセフ・ライト・オブ・ダービーの名がつけられ、Aレベル試験教育のセンターになっている。 歴史あるダービー鉄道製作所英語版はこのカレッジの職業訓練センターとして丸ごと買い上げられ、職人見習い、技師、調理、理容に関する教育を行なっている。

ダービーにあるアカデミー英語版ランドー・フォート・カレッジ英語版は、一部公的基金および企業からの支援を受けて運営されている。これは1980年代後半から1990年代前半にかけて設立された都市技術中等学校英語版 15 校のうちの一つであり、2006年9月にシティ・アカデミーへ衣替えした。

特別支援

[編集]

ダービーには、障碍者支援施設もある。養護施設から第6学年級に生徒を受け入れるアイビー・ハウス・スクールは、ダービー・ムーア・コミュニティ・スポーツ・カレッジにある。ライト・ハウスは障碍児童とその親への短期支援を提供している。

交通

[編集]

空路

[編集]

空港

[編集]

イースト・ミッドランド空港はダービーの中心から 24 キロメートルの位置にある。この空港は、ダービーに近いこと、実際はレスターシャーにあること、伝統的にダービーとレスターとノッティンガムは互いに張り合う関係にあることから、2004年に空港がその名称にノッティンガムを冠すると決めた時、論争が起こった。2006年、ノッティンガム・イースト・ミッドランド空港は元の名前に戻った。この空港では、(東ミッドランドで主に運行される)BmibabyライアンエアーJet2 などの格安航空会社が運行されている。

ダービーの中心から約 7 キロメートル南東にあるダービー飛行場英語版には、ゼネラル・アビエーションが使用する草地の滑走路がある。

鉄道

[編集]
ダービー駅
ダービー駅

鉄道路線

[編集]

ダービーに鉄道が開通したのは1840年のことである。すなわちノース・ミッドランド鉄道英語版がリーズに至る路線を、バーミンガム・アンド・ダービー・ジャンクション鉄道英語版がラグビーを経由しロンドンに至る路線を、ミッドランド・カウンティーズ鉄道英語版がノッティンガムとレスターに至る路線を開いた。1844年、これら 3 社が合併してミッドランド鉄道となり、のちにセント・パンクラス駅に直通する路線を開いた。現在のダービー駅英語版は1840年と同じ場所にあり、1番ホームの基礎部分に開業当時のプラットフォームを見ることができる。ミッドランド鉄道の駅舎正面は1985年に改築され、プラットフォームの上に架けられた1950年代のコンクリート製の天蓋は、2008年から2009年にかけて鋼鉄とガラス製に造り替えられた。

ダービー駅はイースト・ミッドランズ鉄道英語版が管理し、イースト・ミッドランズ鉄道とクロスカントリー鉄道によって、ロンドン方面、北東方面、南西方面へ特急列車が走っている。ローカル路線用にペアツリー駅英語版スポンドン駅英語版もあるが、便は(特に前者は)限定的である。

コルウィック英語版ノッティンガムからエギントン英語版連絡駅に至る、グレート・ノーザン鉄道の「ダービーシャーおよびノース・スタッフォードシャー延長線」(Derbyshire and North Staffordshire Extension) はかつてダービー・フライアーゲート駅英語版を通って行った。路線が廃止された後、ダービーの西にある路線の一部は、イギリス国鉄が試験用に使用した。ダービーの両側にある道床は現在、道路開発で封鎖されるほかは、サストランス英語版の自転車道路に作り変えられた。アンドリュー・ハンディサイドによる装飾的な鋳鉄製の橋は、彼が作った渡河橋としてフライアーゲートに今もある。

鉄道技術

[編集]

ミッドランド鉄道がダービー鉄道製作所英語版およびダービー客貨車製作所英語版と共に自らの本拠をダービーに置いた結果、ヴィクトリア朝時代には鉄道が町の発展に大きく影響した。

しかし上記の通り、20世紀になると他所でも鉄道製作が発達するようになり、ダービーでは他の産業に重点が移った。ダービーはディーゼル車両導入の先駆けとなったとはいえ、1966年にはその製造を終了した。またその修理工場は次第に縮小し、最後にはそれらの車両工場は閉鎖され、跡地はプライド・パークとして再開発された。今でも残る建物は、駅の 6 番ホームから見ることができる。

客貨車製作所はボンバルディア・トランスポーテーションの下で車両製造を続けている。鉄道技術センター英語版 (Railway Technical Centre) には今でもデルタレール・グループ英語版(かつてのイギリス鉄道研究局英語版)本社など、鉄道関連会社が入っている。

バス

[編集]
ダービーのヴィクトリア・ストリートを走るダービー・コーポレーションのトロリーバス(1967年)。

路線バス

[編集]

ダービーのかつてのバス停留所英語版は地元の建築家 C.H. アスリンが設計したアール・デコ様式の建物だった。これは1933年に建てられ、2005年に閉鎖し、保護論者たちの反対を押し切って取り壊された。その独特のカフェを国立路面電車博物館英語版に再建する計画が立てられている。新しいバス停留所は、2010年3月28日にオープンしたリバーライツ団地の一角に建てられた。以前のバス停が閉鎖して以降、モーリッジ地域周辺の道路にある仮停留所が使われていた。ダービーの殆どの路線は現在このバス停留所を終着点とする。新しいバス停留所は現代的で、28 本ある発着場のうち、4 本は長距離バス用、24 本は一般の路線バス用である。乗客が乗降するコンコース部分がまず先に建設され、残りの部分にはホリディ・インヒルトン・ホテル、コンビニエンスストアが入り、それらも2010年末にオープンした。

多くの会社がダービーおよび周辺地域で地元バス路線を運営しているが、大手はトレント・バートン英語版アライバ・ミッドランズ英語版である。ダービーには、ロンドンからマンチェスターへ、またヨークシャーから南西方面へ行くナショナル・エクスプレス英語版の路線が通っている。加えて、マンチェスターとノッティンガム間を結ぶ路線が、トレント・バートン(トランスピーク道路を経由)およびレッド・アローの両社で運行されている。

1932年-1967年の間、ダービー・コーポレーションは市内でトロリーバス英語版を運行していた。トロリーバスは1967年9月9日まで走った。ダービーの車両の何台かはサンドトフト・トロリーバス博物館英語版イースト・アングリア交通博物館英語版に保存されている。

道路

[編集]
メルシャン・ウェイ。アビイ・ストリート越しにユートクシター・ニュー・ロード方向を見る。

ダービーは、イングランドの他の地域につながる広範な道路網を持つ。

高速道路

[編集]

M1モーターウェイが町の東約10マイルの所を走り、ダービーを南はロンドン、北はシェフィールドリーズに繋げている。

主要道路

[編集]

ダービーの近くを通るその他の主要道路としては、歴史的にロンドンからカーライルレスターマンチェスターに至る主要道路だったA6ロード英語版ボドミン英語版からブリストルバーミンガムを経由してマンスフィールドに至るA38ロード英語版ウォリントンからストーク・オン・トレントを経由してレスターに至るA50ロード英語版ニューカッスル・アンダー・ライムからマーブルソープ英語版に至るA52ロード英語版(これにはダービーとノッティンガムを繋げるブライアン・クラフ・ウェイが含まれる)、ダービーからシェフィールドとリーズを経由してサースク英語版に至るA61ロード英語版、がある。

内環道

[編集]

2011年3月16日、街の内環道の最後の部分となったメルシャン・ウェイが開通した[37]。これはバートン・ロードとユートクシター・ニュー・ロードを繋げ、アビイ・ストリートと交差する。アビイ・ストリートは、メルシャン・ウェイに接続する唯一の道路である。

観光

[編集]

名所・旧跡

[編集]
ダービー産業博物館(シルク・ミル)
ピックフォードハウス博物館

ダービーには歴史的建造物が多く残っている[4][6]

ダービー大聖堂英語版はゴシック様式の尖塔を持ち、68.6 メートルというイギリス第二の高さを誇る[1]。この教会の起源は千年以上前に遡り[1]、塔は1509年-1527年に建てられ、主屋は1722年-1725年に改築されたものだが[6]、そのほか増改築を行なった各時代の様式が混在する[1]。2006年からはのつがいが巣を作り卵を育てており[38]、3 台のウェブカムが彼らを実況している[39]

ダービー産業博物館(シルク・ミル)は18世紀はじめに建てられたかつての紡績工場であり、世界遺産ダーウェント峡谷の工場群」の一部ともなっている[33]ロールス・ロイス航空用エンジン鉄道鉱業採石場鋳造場英語版など、ダービーの産業的遺産と技術的偉業の展示を行なっている。

ピックフォードハウスは1770年に建築家ジョセフ・ピックフォードによって建てられた。この典型的なジョージ王朝建築英語版はピックフォードの居宅兼事業所であり、博物館となった現在の展示は当時の雰囲気を存分に偲ばせる[33]。ピックフォードはキング・ストリートのサン・ヘレンズ・ハウス英語版も設計した。

ダービー博物館・美術館ジョセフ・ライト(ライト・オブ・ダービー)の絵画コレクションで特に知られ[6][7]、他にもロイヤルクラウンダービーの磁器、博物学、地元の連隊と考古学の展示がある。

フォード・ストリートとセント・アルクムンズ・ウェイ沿いの新しい建物としては、フライアー・ゲート・スタジオズ、ジョセフ・ライト・センター(ダービー大学英語版の一部)、そしてジュリーズ・インが挙げられる。このホテルはひときわ高く、近くのサン・マリー教会、そして実際のところ(かつてそのシルエットが町の特徴ともなっていた)大聖堂よりも高い。グリーン・レイン、ノッティンガム・ロード、ダーリー・パークなどから町に向かう時の目印は、今やこのジュリーズ・インの建物になった。

観光スポット

[編集]

公園

[編集]
ダービー植物園の北端にある、復元されたグローブ・ストリート・ロッジと“グランド・エントランス”

ダービーにはいくつかの美しい公園がある[6]

ダービーの公園は多くがヴィクトリア朝時代に起源を持つ。ダーリー公園英語版ダーウェント公園英語版は市の中心部からすぐ北の位置にあり、フクロウカワセミほか野生動物の棲家になっている。ダービー漕艇クラブとダーウェント漕艇クラブが川岸にある。ダーリー公園から南の他の公園に向かって延びる、川岸の散策道と自転車道もある。市の中心部から西にはマーキートン公園英語版、北にはアレスツリー公園英語版とその湖がある。

マーキートン公園は年間百万人以上の来園者がある[33]、ダービーで最も人が集まるレジャースポットであり[40]、またダービーで最も広い公園のひとつである(約 0.84 km²)[33]。園内には様々な行事やアトラクションが用意されている[33]。例えば、市議会によって毎年ガイ・フォークス・ナイトで花火が焚かれ、また園内に軽便鉄道英語版が走っている。

市の中心部から南にあるダービー植物園英語版は、造園家ジョン・クラウディウス・ルードンが設計した世界初の公共公園であり[33]、イングランドで初めて樹木園を備えたレクリエーション公園である。慈善事業家の地主かつ実業家でもあったジョセフ・ストラット英語版によって1840年に開かれた。園内には千本以上の樹木が立ち並ぶ[33]。この植物園のデザインはアメリカの大型都市公園、特にニューヨークセントラル・パークのモデルになった[33][41]1990年代にいったん寂れたが、その後再び手入れが施された。

主な公園としては他に、チャッデスデン公園英語版アルバストン公園英語版ノルマントン公園英語版オスマストン公園英語版がある。

文化・名物

[編集]

祭事・催事

[編集]

イベント

[編集]

1977年から毎年2月と7月にビール祭が開かれ、市の一大イベントとなっている。何百種ものビールが供され、全収益は慈善事業に使われる[1]

毎年12月のはじめ、ダービーのチャールズ・エドワード・ステュアート協会は週末に行事を行ない、そのクライマックスでは町の中心をパレードし、カシドラル・グリーンで模擬戦闘が行なわれる。

音楽

[編集]

ダーリー・パーク英語版で毎年開かれる屋外コンサートは、その種の無料イベントで最大のものの一つである。ダービーで主に活動するプロの室内オーケストラであるシンフォニア・ヴィヴァが年を通じて多数行なう演奏の一つでもある。ザ・ダービー・ジャズの楽団は町のジャズ好きの前で演奏し、イギリスで生演奏を行なうジャズ楽団のうちでも主要なものの一つとなっている。

ロックでは、ブルースシンガーソングライターであるケヴィン・コイン英語版ワーナー・ブラザース・レコードの 3 人組ロックバンドであるロストアローン英語版がダービーの出身である。スカコアバンドであるライトイヤー英語版も同様で、2枚目のアルバム『クリス・ジェントルメンズ・ヘアドレッサー・アンド・レールウェイ・ブック・ショップ』はマックリン・ストリートのとある店にちなんで名づけられている。

ポップグループのホワイト・タウンはダービー出身で、そのビデオ『ユア・ウーマン』ではダービー・シティ・センターで多くのシーンを撮影している。

大規模なオーケストラによる演奏会や他のコンサートは、アセンブリ・ルームズで開催される。人気の高いアマチュアのクラシック音楽活動としては、ダービー・バッハ合唱団 (Derby Bach Choir)、ダービー合唱連盟英語版 (Derby Choral Union)、ほか小規模の合唱団として、ダーウェント歌唱団 (Derwent Singers)、シットウェル歌唱団 (Sitwell Singers)、ダービー・コンサート・オーケストラ (Derby Concert Orchestra) などがある。ダービー室内楽団 (Derby Chamber Music) は、ダービー大学英語版のマルチフェイス・センターで毎年定期的に室内楽コンサートを開いている。ダービー大聖堂英語版では毎年夏に、国際的に名の通った演奏家たちを招いたオルガンのリサイタルが開かれている。

フォーク音楽関連では、毎年開かれるダービー・フォーク・フェスティバルが挙げられる。

市内で演奏が行なわれる場所は、アセンブリ・ルームズ、ザ・ヴィクトリア・イン等である。

芸術

[編集]

演劇とアート

[編集]

ダービー劇場英語版は、特に近年はスティーヴン・ソンドハイムによる作品上演によって、全国規模のマスコミから常に賞賛を受けていた。しかし長年にわたる経営不安の後、2008年2月に閉館した。新しい財政プランと共に同年9月には再開されたが、その2ヵ月後さらに深刻な財政問題によって再閉館した。その後ダービー大学英語版がここを賃借している。名称を Derby Playhouse から Derby Theatre に変え、アセンブリ・ルームズ、ギルドホール劇場と共に、ダービー市議会の文化部門である Derby LIVE によって運営されている。ダービー劇場では毎年、ダービー・ギルバート・アンド・サリヴァン・カンパニー英語版の上演が行なわれている。

ダービーQUAD英語版[42]は2008年にオープンした、アートと映画の中核施設である。建物には自主映画および一般商業映画を上映する映画館が 2 つ、現代視覚芸術作品を展示するギャラリーが 2 つ、デジタル・スタジオ、会合スペース、デジタル編集設備、アート・スタジオ、BFI メディアテック(映像作品アーカイブ)がある。

ロバート・ラドラム劇場[43]は各種の催し物(ダンス、ドラマ、アート、音楽、シアター・イン・ザ・ラウンド英語版、喜劇、家族イベント、ロックやポップスのコンサート、ワークショップなど)を行なう 270 席の施設であり、ダービーシャーの多くのアマチュア芸術家グループに活動拠点を提供している。

ダービーの多くのアマチュア劇団のうち、ダービー・シェークスピア劇団 (Derby Shakespeare Theatre Company) はそのしばしば革新的な演出から高い評価を得ており、コーンウォールミナック・シアターへ頻繁に招かれている。

Derby Festé は毎年9月の週末に開かれる、大掛かりなストリートアートの祭典である。

演出家のジョン・デクスター英語版と俳優のアラン・ベイツはダービーの出身である。

ショッピング、ナイトライフ

[編集]
ウェストフィールド・センターの一角

ダービーでのショッピングは、2 つの主な地域に分けられる。一つはウェストフィールド英語版・ショッピング・センター、もう一つは大聖堂地区(カシドラル・クォーター)と呼ばれる昔からの地域である。後者にはブティックカフェなどがあり、大聖堂の周辺およびアイロンゲートとサドラー・ゲートの周辺地域に集中している。

かつてのイーグル・センターを合併したウェストフィールド・ダービーは、ダービーの屋内ショッピングセンターでは主となるものである。これは2007年に、3億4千万ポンドをかけた増築工事の末オープンした。内部にはフードコート、2008年5月にオープンした 12 館からなるシネマコンプレックスがある。この再開発には異論が多く、昔からの地元自営業者がいる市中心部の商業地域が斜陽化してしまうと反対する者もいた。それらの地域の一部ではショッピングセンターのオープン後、客足が遠のき店を閉じてしまったところもある。当のショッピングセンターでは、高い賃料と増税によって、小規模業者は苦しい立場に置かれている[44]

フライアー・ゲート地域にはクラブやバーがあり、ダービーのナイトライフの中心地となっている。ダービーにはパブも多い[9]

スポーツ

[編集]
プライド・パーク・スタジアム

ダービーは、いくつかのスポーツチームの本拠地になっている。

サッカー

[編集]

ダービーを本拠地とするサッカークラブのダービー・カウンティFCは、フットボールリーグ・チャンピオンシップの一員である。 1946年のFAカップで優勝し、1967年にはブライアン・クラフが監督に就任、1969年にフットボール・リーグ・ファースト・ディビジョン英語版に昇格した。そして1972年に(当時の1部リーグである)フットボールリーグで優勝した。 しかし翌年いざこざの末クラフが辞任し、デイヴ・マッケイが後任となった。彼も1975年にチームを優勝に導いた。 以降、今日に至るまで優勝からは遠ざかっている。 1980年には降格の憂き目にあい、1987年にようやく1部リーグに復帰した。以降、チームが1部リーグにあったのは計 11 シーズン(1987年-1991年、1996年-2002年、2007年-2008年)である。 2007年-2008年のシーズンでは38戦中1勝しかできず、この時の 11 ポイントというスコアはプレミアリーグ史上最悪だった。かつての監督にはブライアン・クラフアーサー・コックス英語版ジム・スミス英語版ジョン・グレゴリー英語版ジョージ・バーリー英語版がいる。 かつて所属した選手にはコリン・トッド英語版ロイ・マクファーランド英語版(彼はのち短期間、成果は出なかったが監督にもなった)、デイヴ・マッケイピーター・シルトンディーン・ソーンダースクレイグ・ショート英語版マーコ・ガッビャディーニ英語版オラシオ・カルボナーリ英語版スティーブ・ブルーマートム・ハドルストーンがいる。

チームは1997年からプライド・パーク・スタジアムを本拠地にしている。 それ以前は、1世紀の歴史を持つベースボール・グラウンド英語版を本拠地にしていた[45]。 これは元来、(短命ではあったが)ダービーの野球チームの本拠地として1890年に建てられた競技場だった。優れた野球選手であり著名なサッカー選手でもあった、ダービーの伝説的人物としてスティーブ・ブルーマーがいる。野球チームが解散した後、1895年にダービー・カウンティFCはそこへ移ってきた。

その他

ダービーには、リーグに所属しない成人サッカークラブが 3 つある。 ミックルオーバー・スポーツFC英語版はステーション・ロードとミックルオーバー英語版で活動しており、ノーザンプレミアリーグ・プレミアディヴィジョンリーグ構成では 7 番目にあたる)に所属している。 グラハム・ストリート・プリムズFC英語版ボロウウォッシュ・ヴィクトリアAFC英語版はいずれもイースト・ミッドランズ・カウンティーズ・フットボール・リーグ英語版(リーグ構成で 10 番目)に所属しており、スポンドン英語版のアスターデール複合施設に隣接するグラウンドで活動している。

クリケット

[編集]

ダービーシャー・カウンティ・クリケット・クラブ英語版はダービーのカウンティ・グラウンド英語版を本拠地とし、殆ど全てのホームゲームをそこで行なっているが、2006年からはチェスターフィールドでも試合を行なっている。ファーストクラス・クリケット英語版のカウンティ代表チームの一つとして、1936年に一度カウンティ・チャンピオンシップで優勝している。

ラグビー

[編集]

ダービーには両ラグビー団体のクラブがある。ラグビー・ユニオンのチームであるダービーRFCはミッドランズ1イースト英語版(リーグ構成で 6 番目)に所属し、ハスラムズ・レイン運動場で活動している。ラグビーリーグのチームであるダービー・シティRLFC英語版は1990年に発足し、ナショナル・ラグビー・リーグ・カンファレンスのミッドランズ・プレミア・ディビジョンに参加した。2008年からはハスラムズ・レインでダービーRFCと運動場を共用している。

バスケットボール

[編集]

ムアウェイズ・スポーツ・センターで活動するダービー・トレイルブレーザーズ英語版イングリッシュ・バスケットボール・リーグ英語版の1部リーグに所属している。これはブリティッシュ・バスケットボール・リーグのチームだったダービー・ストーム英語版が解散したのち2002年に結成された。

野球

[編集]

地元の実業家フランシス・レイ英語版は、19世紀末にダービーへ野球を紹介し、町の中心近くにスタジアム英語版を建設した。 野球がダービーに根付くことは無かったが、スタジアムはほぼ一世紀の間、ダービー・カウンティFCの本拠地として使われ続けた。クラブがプライド・パーク・スタジアムに移転した6年後、2003年にこのスタジアムは取り壊された。

陸上

[編集]

オリンピック出場経験もあるマラソン選手アーサー・キーリーは1921年にダービーシャーで生まれ、生涯にわたりダービーで過ごした。彼は1960年ローマオリンピックで2時間27分を記録し、イギリスのオリンピック記録を更新した[46][47]

出身関連著名人

[編集]

ギャラリー

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 豊田市 (2008) p.12
  2. ^ city population”. 11 May 2023閲覧。
  3. ^ Resident Population Estimates by Ethnic Group (Percentages)” (英語). Office of National Statistics. 2011年7月23日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 長谷川孝治『世界大百科事典』(改訂新版)平凡社、2007年。  - 「ダービー」の項より
  5. ^ Regional Trends Online Tables - Regional Statistics - Population and Migration” (XLS) (英語). Office for National Statistics (2011年3月3日). 2011年9月30日閲覧。 - セクション 10.8、ほか
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 渡辺光『ヨーロッパ・ソ連』 II、朝倉書店〈世界地名大事典 2〉、1973年、p.734頁。 
  7. ^ a b c d e f g 久保田武 著、第2版 編『日本大百科全書』小学館、1994年。  - 「ダービー」の項より
  8. ^ Derby”. Vikings in the East Midlands. 2024年8月10日閲覧。
  9. ^ a b 姉妹都市交流”. 豊田市 (2011-09-02日). 2011年10月3日閲覧。
  10. ^ 山本雅男 『ダービー卿のイギリス』 PHP新書、1997年、75p。ランカシャーのウェスト・ダービーに由来するという。
  11. ^ Stephen Glover (1829) The history of the county of Derby p. 545。スタンリー家がダービシャーに広い領地を有することから Sir Oswald Mosley の唱えるウェスト・ダービー由来説には懐疑的である。スタンリー姓はダービシャーの Stanleigh に由来し、ランカシャーに領地を得たのはスタンリー家の創設の 4 代後である。
  12. ^ The Local Government Commission for England (2001年6月). “__E__.pdf Periodic electoral review of Derby: Final recommendations for ward boundaries in Derby” (PDF). 2008年2月4日閲覧。
  13. ^ Derby District: Total Population” (英語). A Vision of Britain Through Time. Great Britain Historical GIS Project. 2007年4月28日閲覧。
  14. ^ grid reference SK353375
  15. ^ a b (英語) The New Encyclopædia Britannica (15th Edition ed.). Chicago: Encyclopædia Britannica. (1994)  - Derby の項
  16. ^ a b A.D.ミルズ(編) 編『イギリス歴史地名辞典(歴史地名篇)』中林瑞松(訳)、東洋書林、1996年。ISBN 978-4887210912 
  17. ^ The Rivers of Time Ron McKeown, ISBN 0-9530603-7-3
  18. ^ a b 今井宏(編) 編『イギリス史』 2巻、山川出版社〈世界歴史大系〉、1990年、p.306頁。ISBN 978-4634460201 
  19. ^ その部屋の複製が、町の中心にあるダービー博物館に展示されている
  20. ^ 川北稔(編) 編『イギリス史』山川出版社〈新版世界各国史〉、1998年、p.232頁。ISBN 978-4634414105 
  21. ^ 友部直(編) 編『世界 3 ヨーロッパ』小学館〈世界陶磁全集 22〉、1986年、pp.248-250頁。ISBN 978-4096410226 
  22. ^ Tim Lambert. “A brief history of Derby, Derbyshire, England” (英語). The History of the World. 2011年8月11日閲覧。
  23. ^ Kirk, Felix & Bartnik, 2002
  24. ^ Stories”. Youandyesterday.co.uk (1942年7月27日). 2010年7月17日閲覧。
  25. ^ http://www.visionofbritain.org.uk/data_cube_table_page.jsp?data_theme=T_POP&data_cube=N_TPop&u_id=10109700&c_id=10001043&add=N
  26. ^ "No. 47246". The London Gazette (英語). 14 June 1977. p. 7656. 2007年11月21日閲覧
  27. ^ The Times. July 29, 1977
  28. ^ Contact us” (英語). Rail Accident Investigation Branch. 2011年8月11日閲覧。 - 住所は The Wharf Stores Road Derby DE21 4BA
  29. ^ Department for Transport travel plan: Annexes” (英語). イギリス交通省. 2011年8月11日閲覧。[リンク切れ] - ウォーキングとダービーにオフィスがある。
  30. ^ About us” (英語). 鉄道事故調査委員会英語版. 2011年8月11日閲覧。
  31. ^ 豊田市 (2008) p.16
  32. ^ 豊田市 (2008) pp.18-25
  33. ^ a b c d e f g h i j 豊田市 (2008) p.13
  34. ^ [1][リンク切れ]
  35. ^ International Combustion Ltd from American roots to Sinfin Lane at bygonederbyshire.co.uk
  36. ^ BBC News - Derby” (英語). BBC. 2011年8月16日閲覧。
  37. ^ Neville test-drives city's new ring road”. 2011年3月17日閲覧。
  38. ^ Derby Cathedral Peregrine Project”. Derby City Council. 2011年8月11日閲覧。
  39. ^ Derby Peregrine Webcam”. Derby City Council. 2011年8月11日閲覧。
  40. ^ Markeaton Park - today” (英語). BBC (2002年10月). 2011年8月14日閲覧。
  41. ^ Arboretum history”. Christopher Harris (2010年). 2011年8月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年8月16日閲覧。
  42. ^ QUAD” (英語). 2011年8月14日閲覧。
  43. ^ The Robert Ludlam Theatre” (英語). 2011年8月14日閲覧。
  44. ^ Westfield Derby – About”. westfieldderby.co.uk. 2008年2月4日閲覧。
  45. ^ The History Of Derby County Football Club” (英語). Derby County Football Club (2011年5月8日). 2011年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年8月11日閲覧。
  46. ^ Derby Olympian Arthur Keily picks up lifetime achievement gong” (英語). This is Derbyshire. Northcliffe Media (2008年9月20日). 2011年8月14日閲覧。
  47. ^ keily, Arthur” (英語). bygonederbyshire. 2009年5月26日閲覧。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
  • Activ Derby” (英語). Activ. 2011年8月13日閲覧。 - ダービーのオンラインガイド。
  • This is Derbyshire” (英語). Northcliffe Media Limited. 2011年8月13日閲覧。 - ダービーシャーのニュース、地域紹介など。
  • Twinning Homepage” (英語). Derby City Council. 2011年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年8月13日閲覧。 - オスナブリュックとの姉妹都市関係の紹介。
  • Derby City Council” (英語). 2011年8月13日閲覧。 - ダービー市議会のサイト。
  • artsderbyshire” (英語). 2011年8月13日閲覧。 - ダービーシャーのアートを紹介するサイト。

座標: 北緯52度55分19秒 西経1度28分33秒 / 北緯52.92194度 西経1.47583度 / 52.92194; -1.47583