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シュヴァルツブルク家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シュヴァルツブルク伯爵家の紋章

シュヴァルツブルク家 (ドイツ語: Haus Schwarzburg) は古くから続くテューリンゲンの貴族の家系である[1]。故地スヴァルツィンブルク (Swartzinburg) はテューリンゲン地方ザールフェルト=ルードルシュタット郡ザールフェルトの西にあるシュヴァルツァの谷にあり、文献における初出は1071年のことである。1599年にはシュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯領シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯領が成立し、両国は後に侯国となった。1918年のドイツ革命により、両国を同君連合の形で統治していたギュンター・ヴィクトル侯は退位させられた。その後、シュヴァルツブルク家の男系は1971年に断絶した。

前史

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1900年頃のシュヴァルツブルクの街とシュヴァルツブルク城
1890年頃のシュヴァルツブルク城
ジッツォ3世は1142年頃にゲオルゲンタール修道院を開創した。跡地にはジッツォ3世の墓碑が置かれている。
1910年のテューリンゲン地方の地図
ケーフェルンブルク城にあるグンダール、ジゲリウス、ジッツォの肖像画
ギュンター21世フォン・シュヴァルツブルク=ブランケンブルク

シュヴァルツブルク家の起源についての確実な記録は12世紀半ばから残っている。それ以前の起源については、歴史学者は当初フランク王国に起源があると推測しており、8世紀のフランク王の息子グンダールが祖と考えられている。グンダールについては、教皇グレゴリウス2世の722年の手紙でグンダレウス (グンダールのラテン語名) として言及されており[2]、ケーフェルンベルク城の絵画にもグンダールが描かれている[3]。この絵ではグンダールはジゲリウスおよびジッツォとともに描かれており、アルンシュタット近郊にあるケーフェルンブルク城はグンダールが建てたものと言われている。ラインハルツブルン年代記によると、ジゲリウスはグンダールの息子であり、ジッツォは1000年頃の人物であるという。このことから、シュヴァルツブルク家は11世紀初頭にテューリンゲン地方に現れたジッツォネン家に由来があるとされている (ジッツォネン家の家名は長年にわたりジッツォという名の人物が多数出たことに由来している)。

シュヴァルツブルク家とケーフェルンブルク家が共通の祖先をもつことについては歴史家の間で見解が共通している。世襲領としてイルメナウ、レムダ、プラウェを領有しており、シュヴァルツブルク家はこの他にライヒスレーエン・シュヴァルツブルク、エーレンシュタイン、ケーニヒゼーも支配していた。さらにボヘミアからルードルシュタット、マインツ大司教領からゾンダースハウゼン、ザクセン選帝侯領からフランケンハウゼン、ザクセン=ヴァイマルからアルンシュタット、ザクセン=ゴータからイルムおよびパウリンツェラを得た[4]他、フルダとヘッセン=カッセルにも領地を持っていた。

記録で確認できる中で一番古いシュヴァルツブルク家の人物はジッツォ3世 (1080年頃-1160) である。証文集によれば、1141年、1143年、1144年にケーフェルンブルク伯として登場する。また、テューリンゲン伯、レンヴィッツガウ伯、シュヴァルツブルク伯としても言及されている。ジッツォ3世は1142年頃にゴータの南にゲオルゲンタール修道院を開き、 パウリンツェラのフォークトに任じられた。さまざまな文献で、ジッツォ3世の祖先は隠者ギュンター (955年頃-1045年) とされている。ギュンター21世フォン・シュヴァルツブルク=ブランケンブルクの墓碑にも隠者ギュンターが描かれているが、これがその血縁関係を証明するものではない。ジッツォ3世の後にケーフェルンブルク伯領とシュヴァルツブルク伯領はそれぞれ別々の所領となったが、シュヴァルツブルク伯領は着々と拡大していったのに対し、ケーフェルンブルク伯領は次第に有名無実化していった。

シュヴァルツブルク伯爵

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シュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯の居城ハイデクスブルク城

ジッツォ3世フォン・ケーフェルンブルクは1103年に初めて史料に現れ、1123年にはシュヴァルツブルク伯と呼ばれるようになった。彼がケーフェルンブルク=シュヴァルツブルク家の共通の祖とされる。しかし、1071年に故地スヴァルツィンブルクが史料に初出してから、それを家名とするまでには100年以上を要した。12世紀半ばのシュヴァルツブルク伯領は、アルンシュタット近郊のケーフェルンブルク、テューリンゲンの森のシュヴァルツブルク、ヴィーエ近くのウンシュトルト川下流域とフィンネ山地であった。

ジッツォ3世の長男ハインリヒ1世は、シュヴァルツブルクの領地とイルムの半分を相続した。次男ギュンター2世はケーフェルンブルク城を継ぎ、兄ハインリヒ1世の死後にはシュヴァルツブルクの領地をも手に入れた。シュヴァルツブルク家は、ギュンター2世からシュヴァルツブルクを相続した息子ハインリヒ2世が祖と考えられている。ハインリヒ2世は神聖ローマ帝国に地歩を確保すべくホーエンシュタウフェン家シュヴァーベンフィリップを支持していた。ホーエンシュタウフェン家は一度は神聖ローマ皇帝位を失うが、フィリップの甥にあたるフリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝に即位すると、ハインリヒ2世は1228年の第6回十字軍に参加してこれを支持した。ハインリヒ2世は、フリードリヒ2世から支持に対する返礼としてザールフェルトとラニスの領地を与えられた。ハインリヒ2世にはハインリヒ3世 (1259年没)、ギュンター7世 (1274年没) およびアルブレヒト2世 (1278年没) の3人の息子がおり、ハインリヒ3世はシュヴァルツブルクとクラニヒフェルトを相続した。ギュンター7世はブランケンブルクを相続し、アルブレヒト2世は領地の代わりに財産を相続した。

一方、ギュンター2世はケーフェルンブルク家の始祖とされる。ギュンター2世は後妻にハラームント伯の娘アーデルハイト・フォン・ロックム=ハラームントを迎えていたが、ハラームント伯領を継承していた義弟ルドルフ1世フォン・ロックム=ハラームントが1191年に亡くなったことからアーデルハイトを通じてハラームント伯領を継承した。ギュンター2世はアーデルハイトとの間の子ルドルフ2世にハラームント伯領を相続させて分家ケーフェルンブルク=ハラームント家を設けたが、1412年にオットー3世フォン・ハラームントが亡くなると断絶し、本家たるケーフェルンブルク家も1385年には断絶している。ケーフェルンブルク家の領地はテューリンゲン方伯領に組み込まれた後、1446年にシュヴァルツブルク家の手に渡ることとなる。ケーフェルンブルク城はシュヴァルツブルク家のものとなったが、三十年戦争の頃には周辺住民が城の石材や煉瓦を家屋などに使うために持ち出したことから荒廃が進み、現在では城壁しか残っていない。一方、ギュンター2世の孫でギュンター3世の息子であるアルベルト1世 (1236年没) は、ケーフェルンブルク家の別の分家であるラーベンスヴァルデ家を興した。アルベルト1世はラーベンスヴァルデ城の他にヴィーエ城とその城下町などを所領とし、ラーベンスヴァルデ伯およびヴィーエ伯を称した。この称号は1249年にハインリヒ・フォン・マイセン辺境伯と他の貴族との間で共同墓地の管理について取り決めた文書で言及されている。しかし、ラーベンスヴァルデ家は短命で、早くも1312年に最後の当主フリードリヒが亡くなって断絶した。

シュヴァルツブルク家において歴史的に重要なシュヴァルツブルク=ブランケンブルク家は、ハインリヒ2世からブランケンブルクを相続したギュンター7世に始まる。しかし、シュヴァルツブルクを相続した兄ハインリヒ3世が1259年に相続人がいないまま亡くなり、ギュンター7世がシュヴァルツブルクを継承したことから、シュヴァルツブルク家とシュヴァルツブルク=ブランケンブルク家はいったん統一される。1274年にギュンター7世がなくなると、シュヴァルツブルクを継承した長男ギュンター9世 (1289年没) がシュヴァルツブルク=シュヴァルツブルク家、ブランケンブルクを継承した次男ハインリヒ5世 (1285年没) がシュヴァルツブルク=ブランケンブルク家を興した。シュヴァルツブルク=シュヴァルツブルク家からは1327年にシュヴァルツブルク=ヴァクセンブルク家、1362年にはシュヴァルツブルク=ロイテンベルク家が分家した。 シュヴァルツブルク=ヴァクセンブルク家はギュンター10世 (18世) に始まり、アルンシュタット近郊のヴェステ・ヴァクセンブルクに在した 。ギュンター10世は、兄弟であるハインリヒ9世とともに1310年にロイヒテンブルクの地権を得、1333年にはロイヒテンブルクを所領とした。当主はヴァクセンブルク以外にクラニヒフェルトなどにも居城を持っていたが、経済的な理由から1369年にヴァクセンブルク城をテューリンゲン方伯に売却せざるを得なくなった。その後、シュヴァルツブルク=ヴァクセンブルク家は1450年に断絶した。一方、シュヴァルツブルク=ロイテンベルク家はハインリヒ11世 (15世) に始まり、彼はロイテンベルク城とその城下町を購入してここに住んだ。しかし1564年に シュヴァルツブルク=ロイテンベルク家は断絶し、領地や家産はシュヴァルツブルク=ルードルシュタット家のものとなった。

シュヴァルツブルク家は14世紀始めにはゲーラ川およびザーレ川の流域にも進出し、テューリンゲン地方北部に領地を広げていた。1338年にシュロットハイム、1340年にはフランケンハウゼンを買い入れて世襲領に加えている。14世紀末には後にシュヴァルツブルク侯国となるゾンダースハウゼンを手に入れている。一方でウンシュトルト川下流域およびザーレ川中流域は早々に失っている[5]。1334年にはルードルシュタットも手に入れた。

この頃、シュヴァルツブルク伯は神聖ローマ帝国にも野心を持っており、ヴィッテルスバッハ家とも極めて良好な関係にあった。ハインリヒ5世の孫であるギュンター21世フォン・シュヴァルツブルク=ブランケンブルクは、1330年から神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世のバイエルンの宮廷で軍指揮官および外交官として仕えていた。相続したのはブランケンブルクの他にザーフェルトの1/4だけであったが、後にテューリンゲン地方北部のアルンシュタット、シュロットハイムおよびフランケンハウゼンを手中に収めて領地を拡大した。1347年10月にルートヴィヒ4世が没すると、ギュンター21世は1349年1月30日にルクセンブルク家カール4世に対抗する対立王として擁立され、同年2月6日にはフランクフルトで戴冠した。しかしカール4世に自身の支持者を切り崩されるなど劣勢に立たされ、1349年5月26日には金銭的な補償や支持者に対する恩赦と引き換えに王権を放棄することを定めたエルトフィレ条約を結んで退位した。その直後に重病 (当時ヨーロッパで大流行していたペストと推測される) となり、1349年6月14日にフランクフルトのヨハニター修道院で亡くなった。葬儀はカール4世の主催によりフランクフルトの聖バルトロメウス大聖堂で行われ、市内の通りや小学校に彼にちなんでシュヴァルツブルクまたはギュンターの名が付けられた。

シュヴァルツブルク家は同時期にヴェッティン家のテューリンゲン方伯フリードリヒ2世とのテューリンゲン伯戦争ドイツ語版 (1342-1346年) を戦ってもいた[6]。テューリンゲン伯戦争は主にヴァイマール=オーラミュンデ伯およびシュヴァルツブルク伯とヴェッティン家の抗争であったが、最終的にはヴェッティン家がテューリンゲン地方の覇権を勝ち取った。この結果、テューリンゲン諸邦の版図は大きく変わったが、テューリンゲン地方全体として見ればその領域は1918年のドイツ革命まで本質的に変化することはなかった。その後、シュヴァルツブルク家は1389年にザールフェルトをヴェッティン家に売却せざるを得なくなり、さらにカムスドルフとゴスヴィッツ、ラニスもヴェッティン家に奪われた。シュヴァルツブルク家の勢力拡大は頭打ちとなったが、ロイス家と同様に小勢力ながらも歴史の表舞台には留まり続けた。

シュヴァルツブルク=ブランケンブルク家当主ギュンター40世フォン・シュヴァルツブルク (1499-1552年) の代にシュヴァルツブルク家の領地は概ね統一された。16世紀初頭に始まった宗教改革は社会にも大きな変化をもたらしたからである。ギュンター40世にはアルブレヒト7世、ヨハン・ギュンター1世、 ギュンター41世およびヴィルヘルム1世の4人の息子がおり、それぞれルードルシュタット、ゾンダースハウゼン、アルンシュタットおよびフランケンハウゼンを継承した。このうち後2人は跡継ぎなく亡くなり、その遺領は1599年11月21日のシュタットティマー条約によりそれぞれヨハン・ギュンター1世とアルブレヒト7世に受け継がれた。このとき決まったシュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯領シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯領の領域は、その後1918年まで300年にわたって保たれた。シュヴァルツブルク伯領はどちらも神聖ローマ帝国においてはオーバーザクセン帝国クライスに属した。

シュヴァルツブルク侯国

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1918年のドイツ革命までシュヴァルツブルク侯国を統治したギュンター・ヴィクトル
シュヴァルツブルク家最後の家長フリードリヒ・ギュンターは1971年に亡くなった。

シュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯とシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯は神聖ローマ帝国内において単なる地方領主に過ぎなかったが、1697年に神聖ローマ皇帝レオポルト1世は両伯を1697年にに昇叙すると宣言した。シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯クリスティアン・ヴィルヘルムはこれを拝受したが、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯アルベルト・アントンはさまざまな理由を挙げてこれを固辞した。しかし1710年に皇帝ヨーゼフ1世から改めて下命があったことから受け入れるに至った。これに合わせて分割相続による所領の細分化や再編を防ぐために長子相続制が導入され、シュヴァルツブルク=ルードルシュタットでは1710年に家法に定められた上で1716年に皇帝の裁可を得た。シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンでも1716年に家法に定め、1719年に皇帝裁可を得た。両侯は1754年から諸侯部会ドイツ語版に参加した。

1909年にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯カール・ギュンターが自殺すると、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯ギュンター・ヴィクトルはシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国摂政となり、同君連合の形で両国を統治した。1910年にはシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国の人口は約10万人、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国の人口は約9万人であった。その後、1918年のドイツ革命によりドイツ帝国内の君主制が次々と倒されていく中、ギュンター・ヴィクトルも1918年11月23日にシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯、11月25日にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯を退位した。 この結果、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット自由州シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン自由州が成立し、さらに1920年には他のテューリンゲン諸邦と合邦してテューリンゲン州となった。1925年にギュンター・ヴィクトルが亡くなると、ジッツォ・フォン・シュヴァルツブルクがシュヴァルツブルク家家長となったが、翌1926年にはジッツォも亡くなり、その息子フリードリヒ・ギュンターが家長となった。フリードリヒ・ギュンターは1971年に子女なく亡くなり、ここにシュヴァルツブルク家の男系は断絶した[7]。なお、フリードリヒ・ギュンターの妹マリー・アントワネットの子女は、ゾルムス=ヴィルデンフェルス伯爵を名乗っている[8]

1900年頃のシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国の主要な産業は林業や農業であった。シュヴァルツァの谷やリヒト、ロークヴィッツにはスレート採石場があった他、フランケンハウゼンには塩田があった。工業としては御用窯・御用工房での磁器およびガラス製品の生産が行われていた。シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国では、農業と林業の他、鉱業や冶金などさまざまな産業があった。

領地と居城

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シュヴァルツブルク家領の領地構造は独特で、主領 (Oberherrschaft) と属領 (Unterherrschaft) に分かれていた。主領はシュヴァルツブルク=ルードルシュタット (現在のザールフェルト=ルードルシュタット郡、ルードルシュタット市) とシュヴァルツブルク=アルンシュタット (現在のイルム郡、アルンシュタット市)、属領はシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンおよびシュヴァルツブルク=フランケンハウゼン (現在のキフホイザー郡、ゾンダーズハウゼン市およびフランケンハウゼン市) とされた。

1599年にはフランケンハウゼンがシュヴァルツブルク=ルードルシュタットに移され、シュヴァルツブルク=ルードルシュタットは大きな主領にいくつか小さな属領という構成となったのに対し、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンの主領は小さく、領地の大部分は多数の属領からなっていた。居城はシュヴァルツブルク=ルードルシュタットではハイデクスブルク城、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンではゾンダースハウゼン城に定められた。

シュヴァルツブルク=ルードルシュタットの主領には、ルードルシュタット、シュタットイルム、ケーニヒゼー、オーバーヴァイスバッハの4つの地方裁判所管轄区とロイテンベルクおよび4つの小地区の独立司法区が置かれた。また、属領にはシュロットハイムとフランケンハウゼンに地方裁判所管轄区が置かれた。テューリンゲン地方北部のケルブラおよびヘーリンゲンは、1419年から1815年までアルベルティン家 (後にザクセン選帝侯領) の主権下においてシュヴァルツブルク伯 (1599年以降はシュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯) およびシュトルベルク伯 (1706年以降はシュトルベルク=ロスラ伯) が共同統治していた。

シュヴァルツブルク=ルードルシュタットは、以下の諸国と接していた。

また、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンは以下の諸国と接していた。

  • 主領ゾンダースハウゼンはプロイセン王国ザクセン県およびシュヴァルツブルク=ルードルシュタットと接していた他、西側はザクセン=ゴータ=アルテンブルクの飛地フォルケンローダとシュワルツブルク=ルードルシュタットの飛地シュトラウスベルクと接していた。
  • アルンシュタットはプロイセン王国ザクセン県、ザクセン=ゴータ=アルテンブルクおよびシュヴァルツブルク=ルードルシュタットと接していた。
  • ゲーレンはシュヴァルツブルク=ルードルシュタットとザクセン=ヒルトブルクハウゼンの他、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハの飛地イルメナウと接していた[10]

シュヴァルツブルク伯は、元はゲーラ川とシュヴァルツァ川に挟まれたテューリンゲンの森南東部のレンヴィッツガウに住んでいたが、13世紀にはバート・ブランケンブルクのグライフェンシュタイン城やシュヴァルツブルク城に移り、ヴェステ・ヴァクセンブルク (1306-1396年)、ロイヒテンブルク城 (1313-1396年)、フリーデンスブルク城 (1362年以降)、ケーフェルンブルク城(1446年以降) と移っていった。1560年からはアルンシュタットのナイデック城に移り、1716年以降はゾンダースハウゼン城に移った。当主以外の家人はテューリンゲン地方北部のキフハウザーにあるシュトラウスベルク城 (1356年以降) やフランケンハウゼン城、エーベレーベン城に住んだ。

歴代シュヴァルツブルク=ルードルシュタット領主

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  • 1574-1605年:シュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯アルブレヒト7世 (ギュンター40世の息子)
  • 1605-1630年:カール・ギュンター
  • 1612–1634年:アルブレヒト・ギュンター
  • 1612–1646年:ルートヴィヒ・ギュンター1世
  • 1646-1662年:エミーリエ・フォン・デルメンホルスト (後見人)
  • 1662-1710年:アルベルト・アントン
  • 1710–1718年:ルートヴィヒ・フリードリヒ1世、1710年に侯に昇叙
  • 1718-1744年:フリードリヒ・アントン
  • 1744-1767年:ヨハン・フリードリヒ
  • 1767–1790年:ルートヴィヒ・ギュンター2世
  • 1790-1793年:フリードリヒ・カール
  • 1793-1807年:ルートヴィヒ・フリードリヒ2世
  • 1807-1814年:カロリーネ・フォン・ヘッセン=ホンブルグ (後見人)
  • 1814-1867年:フリードリヒ・ギュンター
  • 1867-1869年:アルベルト
  • 1869-1890年:ゲオルク・アルベルト
  • 1890-1918年:ギュンター・ヴィクトル (同君連合)

歴代シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン領主

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  • 1571–1586年:シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯ヨハン・ギュンター1世 (ギュンター40世の息子)
  • 1586–1593年:アントン1世フォン・オルデンブルクとヨハン7世フォン・オルデンブルク (後見人)
  • 1593-1594年:ギュンター42世
  • 1594-1600年:ギュンター42世、アントン・ハインリヒ
  • 1600-1601年:ギュンター42世、アントン・ハインリヒ、ヨハン・ギュンター2世
  • 1601-1631年:ギュンター42世、アントン・ハインリヒ、ヨハン・ギュンター2世、クリスティアン・ギュンター1世
  • 1631-1638年:ギュンター42世、アントン・ハインリヒ、クリスティアン・ギュンター1世
  • 1638-1642年:ギュンター42世、クリスティアン・ギュンター1世
  • 1642–1666年:クリスティアン・ギュンター2世 (主領、アルンシュタット)
  • 1642–1666年:アントン・ギュンター1世 (属領、ゾンダースハウゼン)
  • 1642–1681年:ルートヴィヒ・ギュンター2世 (属領、エーベレーベン)
  • 1666– 1716年:クリスティアン・ヴィルヘルム、アントン・ギュンター2世 (1697年に侯に昇叙)
  • 1716–1720年:クリスティアン・ヴィルヘルム
  • 1720–1740年:ギュンター1世
  • 1740-1758年:ハインリヒ
  • 1758-1794年:クリスティアン・ギュンター3世
  • 1794-1835年:ギュンター・フリードリヒ・カール1世
  • 1835-1880年:ギュンター・フリードリヒ・カール2世
  • 1880-1909年:カール・ギュンター
  • 1909-1918年:ギュンター・ヴィクトル (同君連合)

居城

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シュヴァルツブルク城

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シュヴァルツブルク城のカイザースザール

シュヴァルツブルク城は一族の故地シュヴァルツブルクにある。シュヴァルツブルクは元はシュヴァルツィンブルク」という名で、1071年にケルン大司教アンノ2世の書状に現れる。1450年に伯家のうちシュヴァルツブルク=シュヴァルツブルク家が断絶し、シュヴァルツブルク=アルンシュタット=ゾンダースハウゼン家とシュヴァルツブルク=ロイテンベルク家が存続した。これ以降、シュヴァルツブルク城は16世紀に至るまで両家で平等に使用された。1584年以降はシュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯アルブレヒト7世がハイデクスブルク城に居を定めて使われなくなったが、1664年にはオスマン帝国の侵攻に備えて要塞のような姿に改築された。1710年にシュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯ルートヴィヒ・フリードリヒ1世が侯に昇叙されると、シュヴァルツブルク城は侯家の故地として再認識され、バロック様式の大ホール「カイザースザール」を建てるなど大きく改築された。1918年のドイツ革命で君主制が廃された後、シュヴァルツブルク城はテューリンゲン州の財産となったが、シュヴァルツブルク侯家には引き続き居住する権利が認められた。現在では大規模な修復作業が行われている[11]

ハイデクスブルク城 (ルードルシュタット)

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ハイデクスブルク城 (ルードルシュタット市)

ルードルシュタットの旧市街にあるハイデクスブルク城は、1710年に侯に昇叙されたシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯の地位に相応しい城とするため建築家ヨハン・クリストフ・クネーフェルを招いて1737年から建築されたバロック様式の城である[12]。それ以前には3翼のルネサンス様式の城館があったが1735年に焼失している。また、13世紀まではオルラミュンデ伯の居城があったが、1334年にシュヴァワルブルク家が買い入れ、その後1345年にテューリンゲン伯戦争で破壊されている。ハイデクスブルク城は1574年から1918年までシュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯/侯の居城であったが、今日ではテューリンゲン州立博物館ハイデクスブルクおよびテューリンゲン州公文書館ルードルシュタットとして利用されている。

ゾンダースハウゼン城

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ゾンダースハウゼン城の全景

ゾンダースハウゼンにあるゾンダースハウゼン城はシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン家の城館で、古文書によれば1287年には既に城があったとされる。1356年にシュヴァルツブルク伯のものとなり、1533年にギュンター40世が大部分を取り壊して1534年からルネサンス様式の城に改築した。

1837年から1838年にかけて、ギュンター・フリードリヒ・カール2世は、 カルル・フリードリッヒ・シンケルの弟子カール・シェッピヒを招いて新古典様式で改築した。ギュンター・ヴィクトル侯妃アンナ・ルイーゼ・フォン・シュヴァルツブルクは1951年に亡くなるまでゾンダースハウゼン城に住んでいた。現在では博物館となっている。

その他の城館

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紋章とメダル

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ケーフェルンブルク=シュヴァルツブルク家の紋章は「青地に王冠を戴き赤い爪を持つ歩行姿勢の金色の獅子 (Auf Blau ein goldener, auch rotgekrönter, leopardisierter Löwe)」であった。その後、侯に昇叙されて帝国諸侯となった際に紋章が改められた。

シュヴァルツブルク名誉十字章

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シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国およびシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国では、君主家勲章としてシュヴァルツブルク名誉十字章が運用されていた。これは1853年5月20日にシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯フリードリヒ・ギュンターが最初に授与したもので、1857年6月28日以降はシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯との連名で授与されるようになった。

各家の祖

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名前 生没年 備考
ジッツォ3世 1080年頃 - 1160年 ケーフェルンブルク=シュヴァルツブルク家の祖
ハインリヒ1世 1130年頃 - 1184年 ジッツォ3世の息子
ギュンター2世 1135年頃 - 1197年 ジッツォ3世の息子、ケーフェルンブルク家の祖
ギュンター3世 ? - 1223年 ギュンター2世の息子、その息子アルベルト1世はケーフェルンブルク=ラーベンスヴァルデ家の祖
ルドルフ2世 ? - 1255年 ギュンター2世の息子、ケーフェルンブルク=ハラームント家の祖
ハインリヒ2世 1150年頃 - 1236年 ギュンター2世の息子、シュヴァルツブルク家の祖
ハインリヒ3世 ? - 1259年 ハインリヒ2世の息子
ギュンター7世 ? - 1274年 ハインリヒ2世の息子、シュヴァルツブルク=ブランケンブルク家の祖
ギュンター9世 ? - 1289年 ギュンター7世の息子、シュヴァルツブルク=シュヴァルツブルク家の祖
ハインリヒ5世 ? - 1285年 ギュンター7世の息子、再興されたシュヴァルツブルク=ブランケンブルク家の祖

主要各家の年表

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ケーフェルンブルク=シュヴァルツブルク家 (文献初出: 1103年)
ケーフェルンブルク家 (1385年断絶) シュヴァルツブルク家
ハラームント家 (1191-1412年) シュヴァルツブルク=ブランケンブルク家
(1275年以降)
シュヴァルツブルク=シュヴァルツブルク家
(1275-1397年)
ラーベンスヴァルデ家 (1227-1312年) シュヴァルツブルク=ルードルシュタット家 (1599年以降)、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン家 (1599–1909年) シュヴァルツブルク=ヴァクセンブルク家 (1327-1450年)、シュヴァルツブルク=ロイテンベルク家 (1362-1564年)

系図

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ギュンター1世
 
ヤロポルク・イジャスラヴィチの娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジッツォ3世
シュヴァルツブルク伯
ケーフェルンブルク伯
 
ギーゼラ
(マルク伯アドルフ2世娘)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マティルド
 
ハインリヒ1世
 
ギーゼラ
 
ゲルトルート
(マイセン辺境伯コンラート1世娘)
 
ギュンター2世
ケーフェルンブルク伯
 
アーデルハイト・フォン・ロックム=ハラームント
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イルムガルト
(オーラミュンデ伯ジークフリート3世娘)
 
ハインリヒ2世
 
ギュンター3世
ケーフェルンブルク伯
 
ディートブルク
(アンハルト伯ジークムント娘)
 
アルブレヒト
マグデブルク大司教
 
ルドルフ2世
ハラームント伯
 
ヴルブラント
マグデブルク大司教
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハインリヒ3世
 
ギュンター7世
 
 
 
 
 
ケーフェルンブルク家
 
 
 
 
 
 
 
ハラームント家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘレーネ
(ラウエンブルク公ヨハン1世娘)
 
ギュンター9世
シュヴァルツブルク伯
 
ゾフィー
=ヘンネベルク伯ハインリヒ3世
 
ハインリヒ5世
ブランケンブルク伯
 
ソフィヤ
(ガーリチ公ダニール娘)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ギュンター12世
 
ゾフィー
=ヘンネベルク伯ハインリヒ3世
 
 
 
 
 
ハインリヒ7世
 
ギュンター15世
 
ユッタ
=ラウジッツ辺境伯ディーツマン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘレーネ
(シャウエンブルク伯アドルフ6世娘)
 
ハインリヒ9世
 
ヘレーネ
(ニュルンベルク城伯フリードリヒ4世娘)
 
ギュンター10世(18世)
ヴァクセンブルク伯
 
ハインリヒ10世
 
エリーザベト
(オーラミュンデ伯オットー4世娘)
 
ギュンター21世
対立王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ギュンター22世
 
ハインリヒ11世(15世)
ロイテンベルク伯
 
 
 
ヨハン2世
 
ハインリヒ12世
 
ギュンター25世
 
ハインリヒ13世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハインリヒ22世
 
ギュンター34世
 
ジークハルト2世
 
ギュンター30世
 
ハインリヒ18世
 
ハインリヒ20世
 
ギュンター29世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハインリヒ25世
 
 
 
 
 
ハインリヒ21世
 
ギュンター32世
 
エリーザベト
(オーラミュンデ伯オットー10世娘)
 
ハインリヒ23世
 
ハインリヒ24世
 
アンナ
=テューリンゲン方伯フリードリヒ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バルタザール2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エリーザベト
(クレーヴ公アドルフ1世娘)
 
ハインリヒ26世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヨハン・ハインリヒ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ギュンター36世
 
ギュンター38世
 
ハインリヒ29世
 
ギュンター39世
 
ハインリヒ30世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フィリップ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハインリヒ31世
 
 
 
 
 
ハインリヒ32世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ギュンター40世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ギュンター41世
アルンシュタット伯
 
ヨハン・ギュンター1世
ゾンダースハウゼン伯
 
ヴィルヘルム1世
フランケンハウゼン伯
 
アルブレヒト7世
ルードルシュタット伯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クリスティアン・ギュンター1世
 
 
 
カール・ギュンター
 
ルートヴィヒ・ギュンター1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クリスティアン・ギュンター2世
 
アントン・ギュンター1世
 
ルートヴィヒ・ギュンター2世
 
 
 
アルベルト・アントン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クリスティアン・ヴィルヘルム
ゾンダースハウゼン侯
 
アントン・ギュンター2世
ゾンダースハウゼン侯
 
 
 
 
 
ルートヴィヒ・フリードリヒ1世
ルードルシュタット侯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ギュンター43世
 
ハインリヒ35世
 
アウグスト1世
 
 
 
フリードリヒ・アントン
 
ルートヴィヒ・ギュンター4世
 
アンナ・ゾフィア
=ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ・ヨシアス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クリスティアン・ギュンター3世
 
 
 
 
 
 
 
フリードリヒ・カール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ギュンター・フリードリヒ・カール1世
 
ルートヴィヒ・フリードリヒ2世
 
カロリーネ
(ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ5世娘)
 
ルイーゼ
(ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ5世娘)
 
カール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ギュンター・フリードリヒ・カール2世
 
フリードリヒ・ギュンター
 
アルベルト
 
 
 
アドルフ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カール・ギュンター
 
ジッツォ
 
ゲオルク・アルベルト
 
マリー
=メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世
 
ギュンター・ヴィクトル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フリードリヒ・ギュンター
 
 

参考文献

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  • Immo Eberl. Die frühe Geschichte des Hauses Schwarzburg und die Ausbildung seiner Territorialherrschaft. In: Thüringen im Mittelalter: Die Schwarzburger. Thüringer Landesmuseum Heidecksburg. ISBN 3-910-01316-3  ISBN 3-910013-16-3.
  • Karlheinz Blaschke, Uwe Ulrich Jäschke: Kursächsischer Ämteratlas, Leipzig 2009, ISBN 978-3-937386-14-0; Seiten 90f. (Ämter Ebeleben, Kelbra und Heringen)
  • Horst Fleischer: Die Grafen von Schwarzburg-Rudolstadt: Albrecht VII. bis Albert Anton, Rudolstadt 2000, ISBN 3-910013-40-6
  • Horst Fleischer: Die Fürsten von Schwarzburg-Rudolstadt, Thüringer Landesmuseum Heidecksburg, Rudolstadt 1997, ISBN 3-910013-27-9
  • Ulrich Hahnemann: Das Haus Schwarzburg: 1249 Jahre Geschichte eines thüringischen Adelsgeschlechtes, Börde-Verlag 2013, ISBN 978-3-9814458-8-6
  • Andreas Klinger: Schwarzburg. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 24, Duncker & Humblot, Berlin 2010, ISBN 978-3-428-11205-0, S. 12–14 (電子テキスト版). Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 24, Duncker & Humblot, Berlin 2010, ISBN 978-3-428-11205-0, S. 12–14 (Digitalisat).
  • Hans Patze. Geschichte Thüringens. Böhlau Verlag. ISBN 3-412-08285-6  ISBN 3-412-08285-6.
  • Lutz Unbehaun: Das Schwarzburger Militär. Ein Überblick zu Truppengeschichte, Bewaffnung und Uniformierung in den Fürstentümern Schwarzburg-Rudolstadt und Schwarzburg-Sondershausen 1700 bis 1914. Thüringer Landesmuseum Heidecksburg, Rudolstadt 1994, ISBN 3-910013-13-9.
  • 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年、pp. 431 - 435

古典籍

[編集]
  • Friedrich Apfelstedt. Das Haus Kevernburg-Schwarzburg von seinem Ursprunge bis auf unsere Zeit. 1890, Neuauflage. Thüringer Chronik-Verlag H.E. Müllerott. ISBN 3910132294  ISBN 3-910132-29-4.
  • Genealogisches Staats-Handbuch, Band 67, S. 271 ff., 1839 Online in der Google-Buchsuche
  • Paulus Götz (Jovius): Chronikon Schwarzburgicum (Schwarzburgische Chronik), In: Diplomataria et Scriptores Historiae Germanicae medii aevi I., Hg. von Christian Schoettgen und Gregor C. Kreysig,
  • Karl Helmrich: Schwarzburgische Landeskunde: Bilder aus der Geschichte und Geographie, Sondershausen 1871 Online in der Google-Buchsuche
  • Johann Christian August Junghans: Geschichte der schwarzburgischen Regenten. Hartmann, Leipzig 1821, Online in der Google-Buchsuche
  • Ermentrude von Ranke: Das Fürstentum Schwarzburg-Rudolstadt zu Beginn des 18. Jahrhunderts. Der Landstreit gegen die fürstliche Willkür vor Reichskammergericht und Reichshofrat. Kaemmerer, Halle 1915.
  • Heinrich Schöppl: Die Regenten des Fürstentums Schwarzburg-Rudolstadt, Rudolstadt 1915
  • Johann Friedrich Treiber: Geschlechts- und Landes-Beschreibung des Durchlauchtigsten Hauses Schwarzburg, 1756 Online in der Google-Buchsuche
  • Johann Wilhelm Treiber: Über den Ursprung der alten Herren Grafen von Kevernburg und der jetzigen Herren Fürsten v. Schwarzburg, 1787 Online in der Google-Buchsuche
  • Schwarzburg. In: Heinrich August Pierer, Julius Löbe (Hrsg.): Universal-Lexikon der Gegenwart und Vergangenheit. 4. Auflage. Band 15. Altenburg 1862, S. 518–522 (zeno.org).
  • Leberecht W. Heydenreich: Lebrecht Wilhelm Heinrich Heydenreichs, Icti, Fürstl. Schwartzburgl. Hofraths, Historia des ehemals Gräflichen nunmehro Fürstlichen Hauses Schwartzburg. Darinnen die Geschichte derer Grafen und Fürsten zu Schwartzburg, bis auf gegenwärtige Zeiten, deren Rechte, Prärogativen, wie auch ihre Lande erläutert werden. Wie auch Anhang einer kurtzen genealogischen und historischen Beschreibung derer Grafen von Hohnstein. Jungnicol, Erfurt 1743. Digitalisat

ベルトルト・ライン蔵書 (ルードルシュタット公文書館で閲覧可能)[13]

  • Zur Geschichte des Grafentums Schwarzburg, besonders unter Albrecht Günther 1582–1634 mit Auszügen aus Beständen des Staatsarchivs Rudolstadt, besonders aus dem Bestand „Schwarzburgica“.
  • Zur Geschichte des Grafentums Schwarzburg, besonders unter Karl Günther (1576–1630) mit Auszügen aus Beständen des Staatsarchivs Rudolstadt, besonders aus dem Bestand „Schwarzburgica“.
  • Zur Geschichte des Grafentums Schwarzburg, besonders unter Ludwig Günther (1581–1646) mit Auszügen Auszüge aus Beständen des Staatsarchivs Rudolstadt, besonders aus dem Bestand „Schwarzburgica“.
  • Zur Geschichte des Schwarzburger Grafenhauses Ende 16. bis Mitte 17. Jahrhundert mit Auszügen Auszüge aus Beständen des Staatsarchivs Rudolstadt über die Schwarzburger Gräfinnen Elisabeth Juliane (1578–1658), Sophie (1579–1630), Magdalene (1580–1652), Anna Sibylle (1584–1623), Katharine Marie (1585–1650), Dorothee Susanne (1587–1662) und Heinrich Günther (1588–1589).

外部リンク

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出典

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  1. ^ Immo Eberl: Die frühe Geschichte des Hauses Schwarzburg und die Ausbildung seiner Territorialherrschaft. In: Thüringen im Mittelalter: Die Schwarzburger. Thüringer Landesmuseum Heidecksburg, Rudolstadt 1995, S. 81
  2. ^ Immo Eberl: Die frühe Geschichte des Hauses Schwarzburg und die Ausbildung seiner Territorialherrschaft. In: Thüringen im Mittelalter: Die Schwarzburger. Thüringer Landesmuseum Heidecksburg, Rudolstadt 1995, S. 80
  3. ^ Arnold Boie: Das Käfernburger Gemälde, S. 279
  4. ^ Brockhaus' Konversationslexikon, 14. Auflage, 1894-1896
  5. ^ Ernst Devrient: Der Kampf der Schwarzburger um die Herrschaft im Saaletal, in: Festschrift für Berthold Rein, Jena 1935, S. 1–44
  6. ^ Peter Langhof: Die Thüringer Grafenfehde und die Schwarzburger, S. 132
  7. ^ Klaus Reinhold: Chronik Arnstadt, 2. Auflage, S. 198 (PDF; 5,8 MB)
  8. ^ Genealogische Datenbank im Internet - Geneall
  9. ^ Informationen über Schwarzburg-Rudolstadt von HGIS Germany
  10. ^ Informationen über Schwarzburg-Sondershausen von HGIS Germany
  11. ^ Ostthüringer Zeitung vom 13. Juni 2012
  12. ^ Thüringer Landesmuseum Heidecksburg: Residenzschloss Heidecksburg
  13. ^ Nachlass Berthold Rein”. Archivportal Thüringen. 2019年10月25日閲覧。