シリ・ガンボ
シリ・ガンボ(Siri Γambo、1191年 - 1259年)は、モンゴル帝国に仕えたタングート人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では昔里鈐部(xīlǐqiánbù)と記される。「ガンボ(Γambo)」とはチベット系の言語(タングート語)に由来する名前で、「完成した者、覚者(sgam-po)」を意味する[1]。
概要
[編集]シリ・ガンボの来歴については不明な点が多いが、モンゴル帝国の建国者チンギス・カンが中央アジア遠征を始めた頃にはこれに仕えていた。チンギス・カンが中央アジア遠征から帰還すると、一度モンゴルに服属しながら命令を拒んだ西夏国への遠征が始まった。シリ・ガンボはクト・テムルとともに沙州城の住民の説得に派遣されたが、沙州の将軍はモンゴルに降ったふりをして彼等を歓待し、首帥が至ったところで伏兵を起こしてモンゴル軍を奇襲した。この時、シリ・ガンボは自らの馬を首帥に与えて自らは敢えて奇襲に驚いて躓いていた馬を選んで乗り、殿軍を務めてモンゴル軍の退却を成功させた。後にこの功績を聞いたチンギス・カンが「死地に臨んで、汝は何故馬を代えて人に与えたのか?」と尋ねたところ、シリ・ガンボは「たとえ私が戦死したとしても重大事ではありませんが、陛下の宿将は失うべきではないと考えたためであります」と答えたため、チンギス・カンはその忠義を讃えたという[2]。
その後、シリ・ガンボは粛州攻めに加わったが、粛州にはシリ・ガンボの兄がいた。粛州の陥落・掠奪によって家族に害が及ぶのを恐れたシリ・ガンボは粛州の城民を救うようチンギス・カンに請願した。しかしチンギス・カンは長らく降伏しない粛州の民に怒りを懐いており、粛州の常民を皆殺しにせよという聖旨(ジャルリク)を出した。しかし、シリ・ガンボの請願の一部は受け入れ、シリ・ガンボの家人106戸は死を免れたという[3]。
1236年からはバトゥを総司令、スブタイを副司令とする東欧遠征に従軍し、1237年にはルーシに進出して也里賛城を7日にわたる激戦の末攻略するという功績を挙げた。1359年冬にはアスト人最大の都市のメゲス城の攻略に加わったが、守りが堅くなかなか城を落とすことができなかった。1360年正月、シリ・ガンボは死士10名を率いて雲梯を昇り、敵兵11名を捕らえて「城破れたり」と叫んだため、モンゴル兵はこぞってこれに続き、遂にメゲス城を攻略した。これらの功績によってシリ・ガンボは西馬・西錦を与えられ、バアトル(勇士)の称号を授与された。1361年、遠征から帰還するとシリ・ガンボは千人隊長(ミンガン)に任ぜられ、更にジャルグチ(断事官)とされた[4]。
1246年、第3代皇帝としてグユクが即位すると、大名路ダルガチとされた。また、1247年にはマフムード・ヤラワチとともにイェケ・ジャルグチ(大断事官)とされ燕京方面を統轄するようになる[5]。更にその後、モンケ・カアンが第4代皇帝となると、新たにブジルが同じ役職に任命されるようになったため、また新たな虎符を与えられた。1259年からはクビライの南征の兵站を担当し、一度として兵站を滞らせることはなかったが、病となり家に帰ったところで69歳にして亡くなった[6]。死後は息子のアユルが後を継ぎ、大名路ダルガチとなった[7]。
脚注
[編集]- ^ 村上1970,194頁
- ^ 『元史』巻122列伝9昔里鈐部伝,「昔里鈐部、唐兀人、昔里氏。鈐部亦云甘卜、音相近而互用也。太祖時、西夏既臣服、大軍西征、復懐貳心。帝聞之、旋師致討。命鈐部同忽都鉄穆児招諭沙州。州将偽降、以牛酒犒師、而設伏兵以待之。首帥至、伏発馬躓、鈐部以所乗馬与首帥使奔、自乗所躓馬而殿後、撃敗之。他日、帝聞曰『卿臨死地、而易馬与人、何也』。鈐部対曰『小臣陣死、不足重軽、首帥乃陛下器使宿将、不可失也』。帝以為忠」
- ^ 『元史』巻122列伝9昔里鈐部伝,「進兵囲粛州、守者乃鈐部之兄、懼城破害及其家、先以為請。帝怒城久不下、有旨尽屠之、惟聴鈐部求其親族家人於死所、於是得免死者百有六戸、帰其田業」
- ^ 『元史』巻122列伝9昔里鈐部伝,「歳乙未、定宗・憲宗皆以親王与速卜帯征西域、明年啓行、鈐部亦在中。又明年、至寛田吉思海、鈐部従諸王抜都征斡羅斯、至也里賛城、大戦七日、抜之。己亥冬十有一月、至阿速滅怯思城、負固久不下。明年春正月、鈐部率敢死士十人、躡雲梯先登、俘十一人、大呼曰『城破矣』。衆蟻附而上、遂抜之。賜西馬・西錦、錫名抜都。明年班師、授鈐部千戸、賜只孫為四時宴服、尋遷断事官」
- ^ 四日市2002,37頁
- ^ 『元史』巻122列伝9昔里鈐部伝,「丙午、定宗即位、進秩大名路達魯花赤。憲宗以卜只児来蒞行台、命鈐部同署、既又別錫虎符、出監大名。己未、世祖南征、供給軍餉、未嘗乏絶。以疾輿帰、卒於家、年六十九。子愛魯」
- ^ 『元史』巻122列伝9昔里鈐部伝,「愛魯襲為大名路達魯花赤。至元五年、従雲南王征金歯諸部。蛮兵万人絶縹甸道、撃之、斬首千餘級、諸部震服。六年、再入、定其租賦、平火不麻等二十四寨、得七馴象以還。七年、改中慶路達魯花赤、兼管爨僰軍。十年、平章賽典赤行省雲南、令愛魯疆理永昌、增田為多。十一年、閲中慶版籍、得隠戸万餘、以四千戸即其地屯田。十三年、詔開烏蒙道、帥師至玉連等州、所過城寨、未附者尽撃下之、水陸皆置駅伝、由是大為賽典赤信任。十四年、忙部・也可不薛叛、以兵二千討平之、遷広南西道左右両江宣撫使、兼招討使。十六年、遷雲南諸路宣慰使・副都元帥。十七年、復立雲南行省、拜参知政事。十八年、烏蒙羅佐山、白水江蛮殺万戸阿忽以叛、復討平之。十九年、召詣闕、進左丞。也可不薛復叛、詔与西川都元帥也速答児・湖南行省脱里察会師進討、擒也可不薛送京師、仁普諸酋長皆降、得戸四千。諸王相吾答児帥諸将征緬、愛魯供饋餉、無乏絶。二十二年、烏蒙阿謀殺宣撫使以叛、与右丞拜答児往征之、拜答児以愛魯習知其山川道里、令諸軍悉聴指授、分道進撃、生擒阿蒙以帰。二十四年、進右丞。朝廷立尚書省、復改行尚書右丞。鎮南王征交趾、詔愛魯将兵六千人従之。自羅羅至交趾境、交趾将昭文王以兵四万守木兀門、愛魯与戦破之、擒其将黎石・何英。比三月、大小一十八戦、乃至其王城、与諸軍会戦又二十餘合、功為多。二十五年、感瘴癘卒。贈平章政事、諡毅敏。子教化、中書平章政事、請於朝、贈其祖昔里鈐部太師、諡貞献、加贈愛魯太師、追封魏国公、改諡忠節」
参考文献
[編集]- 村上正二訳注『モンゴル秘史 1巻』平凡社、1970年
- 四日市康博「ジャルグチとビチクチに関する一考察」『史觀』第147冊、2002年
- 『元史』巻122列伝9