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シルヴィオ・ペッリコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シルヴィオ・ペッリコ
Silvio Pellico
シルヴィオ・ペッリコの肖像画
誕生 1789年6月25日
サルデーニャの旗 サルデーニャ王国サルッツォ
死没 (1854-01-31) 1854年1月31日(64歳没)
サルデーニャの旗 サルデーニャ王国トリノ
墓地 トリノ記念墓地イタリア語版
職業 作家詩人
言語 イタリア語
国籍 サルデーニャの旗 サルデーニャ王国
民族 イタリア人
代表作我が牢獄イタリア語版
デビュー作 『フランチェスカ・ダ・リミニ』
親族フランチェスコ・ペッリコイタリア語版
ウィキポータル 文学
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シルヴィオ・ペッリコ(イタリア語: Silvio Pellico1789年6月25日 - 1854年1月31日)は、イタリアイタリア統一運動時代の作家詩人愛国者である。イタリア統一運動の初期に活躍し、ロマン主義の文学雑誌『コンチリアトーレ』を創刊した。

生涯

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初期

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シルヴィオ・ペッリコがムリゼンゴに滞在したことを示す銘板

1789年6月25日サルデーニャ王国サルッツォに生まれた。幼少期は4人兄弟全員が敬虔なカトリック教徒である母親から献身的なカトリック教育を受けて育ち、であるフランチェスコ・ペッリコイタリア語版イエズス会士になった。一方でシルヴィオ・ペッリコは宗教よりも古典主義的な文学芸術言語学などに興味を示し、一時フランス語を学ぶためにイタリアを離れてフランスリヨンに渡っていたがその間にウーゴ・フォスコロヴィットーリオ・アルフィエーリの熱烈な支持者となった[1]

1809年イタリア王国帰国後は家族とともにミラノに定住してイタリア王国戦争省に就職し、陸軍士官学校のフランス語教師を務めた。教師として働く傍らでは新古典主義に触れ、敬愛していたウーゴ・フォスコロヴィンチェンツォ・モンティイタリア語版を頻繁な交流を持つようになる[1]

作家として

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シルヴィオ・ペッリコとピエーロ・マロンチェッリの死刑判決文

1814年にはナポレオン体制が事実上崩壊し、イタリア王国での公職を失った。すると執筆活動に勤しむようになり、悲劇『フランチェスカ・ダ・リミニ』(『Francesca da Rimini』)を出版してこれが大きな反響を呼び、愛国的文学者たちとの交流を深めていく[1]。また1816年にはミラノ近郊のアルルーノに移り住み、起業家ルイージ・ポロ・ランベルテンギの息子ジュリオ・ポロ・ランベルテンギイタリア語版家庭教師を任される。ほかにもフェデリーコ・コンファロニエリジョバンニ・ベルシェジャン・ドメニコ・ロマニョーシイタリア語版などとも出会った[1]。こうして処女作が評価を受けたことをきっかけに初期リソルジメントの志士たちとの接点が多くなり、ペッリコもまた愛国的文学へと傾倒していくようになる[1]

1816年からはロンバルド=ヴェネト王国の首都ミラノで、ビブリオテーカ=イタリアーナ誌が発刊される。これはドイツ文学を始めとする外国文学の浸透を通じてイタリア文学への固執を止めさせ反ゲルマン主義を忘れ去れることが目的で、オーストリア帝国により創刊された文学雑誌であった[2]。執筆者は糾合された文学者たちでそれにはペッリコも含まれており、彼の作品『フランチェスカ・ダ・リミニ』(『Francesca da Rimini』)はここでも大きく話題となった。しかし、この雑誌は元来古典主義的なものであったが、当時プロイセン王国オーストリア帝国ではロマン主義的風潮が流行っていた。この雑誌オーストリア帝国の思惑に反してそのロマン主義イタリア流入を齎してしまい、雑誌の執筆者たちは古典主義ロマン主義で対立。激しい論争の末、ロマン主義者のたちはビブリオテーカ=イタリアーナ誌を脱退した[1][3]

その脱退者の中心人物となったのがペッリコである。ペッリコはもう一人、ロマン主義者の中心人物であったジョバンニ・ベルシェと協力し、かつて家庭教師として自分を雇っていたルイージ・ポロ・ランベルテンギ秘密結社フェデラーティの黒幕的存在であった開明貴族フェデリーコ・コンファロニエリの資金援助を受けて、ロマン主義の文学雑誌『コンチリアトーレ』を創刊した[1][4][5]。この雑誌で扱われる内容は決して革命的なものではなかったが、オーストリア帝国の意に反して創刊された事や、露骨に愛国的な文学者を執筆者として多数抱えていた事情からオーストリア帝国に常に警戒される事となった。

逮捕・投獄

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有罪判決を受けたシルヴィオ・ペッリコとピエーロ・マロンチェッリが移送を開始する様子

1820年コンチリアトーレの執筆者の一人であるたピエーロ・マロンチェッリが弟に宛てた手紙がオーストリア帝国当局に発見された。その内容は創刊者ペッリコのカルボナリ入党の儀についてであり、これによりペッリコはピエーロ・マロンチェッリコンチリアトーレの主要執筆者であるジャン・ドメニコ・ロマニョーシイタリア語版メルキオーレ・ジョイアイタリア語版などとともに10月13日に逮捕された[5]。これによりコンチリアトーレは主導者や創業者を失うという形で弾圧された[4]

ペッリコはその後、ヴェネツィアピオンビイタリア語版と呼ばれる刑務所に収監され[6]1822年にようやくペッリコ・マロンチェッリ裁判と呼ばれる公的な裁判が開かれた[1]。そこではまずペッリコとマロンチェッリの二人は死刑が宣告されたが、まもなく二人とも減刑されマロンチェッリは禁固20年、ペッリコは禁固15年となった[1]。刑が確定したのち、オーストリア帝国が支配するモラヴィアブルノにある、刑務所として利用されていたスピルバーグ要塞イタリア語版に移送された。この施設は逮捕されたイタリア人愛国者の多くが収監される刑務所であり、収監中はアントニオ・フォルトゥナート・オロボーニイタリア語版などと親しくなっている[1]

1830年にはさらに減刑されてペッリコは釈放されたが、その後過酷な刑務所体験を記した『我が牢獄イタリア語版』はイタリア統一運動に際して反オーストリア帝国感情の高揚に多大な貢献をした[6][7]。またオーストリア帝国刑務所における囚人への過酷な刑罰が世間に明かされたことから政府は国際的な非難も受けており、メッテルニヒは、この本がオーストリア帝国に与えた損害は戦争の敗北よりも大きなものであったと述べている[1]

晩年

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我が牢獄イタリア語版発表後はロマン主義文学の執筆に人生を捧げた[8]。またその過程でチェザーレ・バルボカミッロ・カヴールカルロ・アルベルトなど、次代のリソルジメントの志士たちと結びつきを強めていったが直接的な革命活動に参画する事はなかった。そして1854年1月31日トリノにて死亡した[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l PELLICO, Giuseppe Eligio Silvio Feliceイタリア辞典 イタリア百科事典研究所イタリア語版(イタリア語)
  2. ^ 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』近藤出版社(1976年) 87ページ
  3. ^ Biblioteca italianaイタリア辞典 イタリア百科事典研究所イタリア語版(イタリア語)
  4. ^ a b Conciliatore, Ilイタリア辞典 イタリア百科事典研究所イタリア語版(イタリア語)
  5. ^ a b 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』近藤出版社(1976年) 88ページ
  6. ^ a b 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』近藤出版社(1976年) 89ページ
  7. ^ 藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』講談社(2012年) 75ページ
  8. ^ 藤澤房俊『マッツィーニの思想と行動』太陽出版(2011年) 23ページ

関連項目

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