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ペッリコ・マロンチェッリ裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ペッリコ・マロンチェッリ裁判イタリア語: Processo Maroncelli-Pellico)は、1821年オーストリア帝国が実施した裁判である。シルヴィオ・ペッリコピエーロ・マロンチェッリを含む数名の愛国者たちが裁判にかけられ、厳罰を言い渡された。

背景

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裁判にかけられたシルヴィオ・ペッリコ

シルヴィオ・ペッリコ1818年ビブリオテーカ=イタリアーナを抜けてロマン主義雑誌コンチリアトーレ』を創刊し、ロンバルディアにおける愛国的文学者の中心人物となっていた[1]。一方でピエーロ・マロンチェッリ音楽家でありながらカルボナリに入党し革命を志向、コンチリアトーレ創刊に協力するなどしていた[2]。このため二人は、以前からオーストリア帝国当局から監視をされていたものの、逮捕投獄には至っていなかった。

1820年には南イタリアナポリ革命が発生。この動きに触発されたピエーロ・マロンチェッリロンバルディア中の文学者と連絡を取り、イタリア諸邦の連合体を作ることを主張した。また予てより友好関係を築いていたシルヴィオ・ペッリコカルボナリに誘った[1][2]。その際の様子をマロンチェッリは手紙に認め弟のフランチェスコに送ったが、その手紙はマロンチェッリを警戒していたオーストリア帝国当局の手に渡る。この結果、ピエーロ・マロンチェッリカルボナリに加入していた罪で逮捕され、またカルボナリに関わった嫌疑が掛けられたシルヴィオ・ペッリコも1週間後に追って逮捕された[3]

この二人が逮捕された事で愛国者は連鎖的に次々逮捕された[4]コンチリアトーレの執筆者の一人であったジャン・ドメニコ・ロマニョーシイタリア語版や、コンチリアトーレ創刊に資金提供したフェデリーコ・コンファロニエリカルボナリ党員であった舞台俳優アンジェロ・カノーヴァイタリア語版[5]経済学者アデオダート・レッシイタリア語版[6]医師ジャコモ・レツィアイタリア語版などが主要な人物である。

判決

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有罪判決を受けたシルヴィオ・ペッリコピエーロ・マロンチェッリが移送を開始する様子

フェデリーコ・コンファロニエリは単独の裁判で死刑判決が(後に終身刑減刑[4]ジャン・ドメニコ・ロマニョーシイタリア語版も独自に無罪判決が下されていたが、シルヴィオ・ペッリコピエーロ・マロンチェッリアンジェロ・カノーヴァイタリア語版アデオダート・レッシイタリア語版ジャコモ・レツィアイタリア語版ヴェネツィアにて共同で裁判を受けることになった[1][2]。なお、この五名の事前調査はオーストリア人アントニオ・サルヴォッティイタリア語版が請け負った。

1821年12月6日には裁判が開かれ、シルヴィオ・ペッリコピエーロ・マロンチェッリアンジェロ・カノーヴァイタリア語版の三名には死刑判決が、アデオダート・レッシイタリア語版ジャコモ・レツィアイタリア語版の二人には終身刑という重い判決が下された[1][2]

減刑

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しかし1822年オーストリア皇帝フランツ1世死刑執行後の民衆の反発などを恐れて減刑を認め、五名は以下のように減刑された。

ピエーロ・マロンチェッリ 懲役20年[2]
シルヴィオ・ペッリコ 懲役15年[1]
アンジェロ・カノーヴァイタリア語版およびアデオダート・レッシイタリア語版 懲役5年[5][6]
ジャコモ・レツィアイタリア語版 懲役3年

刑務所はペッリコとマロンチェッリの場合はスピルバーグ要塞イタリア語版[4]、残りの三名はリュブリャナ城イタリア語版となった。

脚注

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  1. ^ a b c d e PELLICO, Giuseppe Eligio Silvio Feliceイタリア人名辞典 イタリア百科事典研究所イタリア語版(イタリア語)
  2. ^ a b c d e MARONCELLI, Pieroイタリア人名辞典 イタリア百科事典研究所イタリア語版(イタリア語)
  3. ^ 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』近藤出版社(1976年) 88ページ
  4. ^ a b c 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』近藤出版社(1976年) 89ページ
  5. ^ a b CANOVA, Angeloイタリア人名辞典 イタリア百科事典研究所イタリア語版(イタリア語)
  6. ^ a b RESSI, Adeodatoイタリア人名辞典 イタリア百科事典研究所イタリア語版(イタリア語)

関連項目

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