ジェイ・シュローダー
Jay Schroeder | |||||||||
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基本情報 | |||||||||
ポジション | クォーターバック | ||||||||
生年月日 | 1961年6月28日(63歳) | ||||||||
出身地 | ウィスコンシン州ミルウォーキー | ||||||||
身長: | 6' 4" =約193cm | ||||||||
体重: | 215 lb =約97.5kg | ||||||||
経歴 | |||||||||
大学 | UCLA | ||||||||
NFLドラフト | 1984年 / 3巡目全体83位 | ||||||||
初出場年 | 1985年 | ||||||||
初出場チーム | ワシントン・レッドスキンズ | ||||||||
所属歴 | |||||||||
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受賞歴・記録 | |||||||||
プロボウル選出(1回) | |||||||||
1986 | |||||||||
NFL 通算成績 | |||||||||
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Player stats at PFR |
ジェイ・シュローダー(Jay Brian Schroeder 1961年6月28日- )はウィスコンシン州ミルウォーキー出身の元アメリカンフットボールのクォーターバック。NFLのワシントン・レッドスキンズ、ロサンゼルス・レイダース、シンシナティ・ベンガルズ、アリゾナ・カージナルスでプレイした。
経歴
[編集]プロ入りまで
[編集]ハイスクール時代、アメリカンフットボールでフォレスト・ウィテカーとチームメートだった。強肩と運動能力が注目されて、1979年のMLBドラフトで1巡目全体3位で捕手として指名されて[1]入団したトロント・ブルージェイズのマイナーリーグに所属したこともある(1996年にキンストンのプロ野球殿堂入り)。UCLA時代は1980年のオレゴン州立大学戦に1試合先発し、パス10回中5回成功、120ヤードを獲得した後、プレイすることはなかった[2]が、1984年のNFLドラフトでワシントン・レッドスキンズから3巡目で指名されて入団した。
ワシントン・レッドスキンズ
[編集]1985年に先発QBのジョー・サイズマンがニューヨーク・ジャイアンツ戦でローレンス・テイラーのヒットを受けて退場したため、翌週行われたピッツバーグ・スティーラーズ戦に彼は大学時代から数えておよそ5年ぶりに先発出場し30-23と勝利をあげた[2]。このシーズン彼が先発した試合は4勝1敗だったが、チームは10勝6敗でプレーオフ進出を逃した。サイズマンがシーズン終了と共に引退すると彼は全試合に先発出場するようになり、1986年にチームは12勝4敗、彼はフランチャイズレコードとなる4109ヤードを投げてプロボウルにも選出された。
ワイルドカードプレーオフでロサンゼルス・ラムズに19-7、前年のスーパーボウルチャンピオン、シカゴ・ベアーズに27-13で勝利し、NFCチャンピオンシップゲームまで進出したがニューヨーク・ジャイアンツに0-17と完封負けしている[3]。
1987年には開幕戦のフィラデルフィア・イーグルス戦で肩を故障、控えのダグ・ウィリアムスが先発することとなった。シュローダーはシーズン中に先発復帰を果たしたが再び故障してしまい、プレーオフの先発QBの座はウィリアムズのものとなってしまい、第22回スーパーボウルではウィリアムズがMVPを獲得した。翌シーズン、彼はジム・ラシェイとのトレードでロサンゼルス・レイダースに移籍した。
ロサンゼルス・レイダース
[編集]1988年の第4週に行われたデンバー・ブロンコスとのマンデーナイトフットボールでは前半8本中2本のパスしか通せずにパスでは26ヤードしか獲得できず、相手ラインバッカーのサイモン・フレッチャーにはインターセプトを許してハーフタイムを0-24とリードされて迎えた。多くの視聴者はソウルオリンピックにチャンネルを変えてしまったが後半に入るとスティーブ・スミスへの2本のタッチダウンパスを通すなどオーバータイムに試合を持ち込み逆転勝利した[4][5]。
1990年、彼は2849ヤードを投げ、チームは12勝4敗でプレーオフに進出した。シーズン9勝7敗のシンシナティ・ベンガルズとのワイルドカードでは第4ダウン残り1ヤードで、イーサン・ホートンへのパスが不成功でターンオーバー、さらにデビッド・フルチャーにインターセプトされたが、ホートンへの41ヤードのTDパスなど、2TDパスをあげて、20-10で勝利した[6]。バッファロー・ビルズとのAFCチャンピオンシップゲームで彼は5インターセプトを喫してチームは3-51で敗れた。彼がレギュラーシーズン中に喫したインターセプトはわずか9であった[7]。
1991年、シーズン終盤の4試合で1TD、5INTと乱調で、両足首を負傷して、トッド・マリノビッチに先発の座を奪われた。マリノビッチにポジションを奪われるまでは、33試合連続で先発出場していた[4]。
1992年、マリノビッチの控えとしてシーズンを迎えたが、10月のシアトル・シーホークス戦でマリノビッチが300ポンドの巨漢、コーテス・ケネディにサックされて負傷したため、先発QBを務めた[8]。
レイダース退団後
[編集]1993年4月30日、ブーマー・アサイアソンの代わりとして、シンシナティ・ベンガルズと契約、デビッド・クリングラーの控えQBとなった[9]。シーズン途中にクリングラーに代わって先発QBとなった[10]。
1994年、開幕直前にベンガルズを解雇された。9月、ショーン・ムーアの代わりにスティーブ・バーライン、ジム・マクマーンに次ぐ第3QBとしてアリゾナ・カージナルスと契約を結んだ[11]。
1995年にパス試投2808回、パス成功1426回、パス獲得ヤード20,063ヤード、パスタッチダウン114回、インターセプト108回、ラッシング獲得ヤード761ヤード、TDラン5回の記録を残して現役を引退した。
2007年から Snow Canyon High School でオフェンシブコーディネーターとQBコーチを兼任した。2008年現在は Dixie High School のアシスタントコーチとなっている。
また2007年11月からスカイスポーツのNFLカバレッジで評論家をしている。
脚注
[編集]- ^ MLB First Round Draft Picks - 1979 ESPN
- ^ a b Tim Graham (2008年9月9日). “Before Cassel, there was Jay Schroeder”. ESPN. 2015年2月14日閲覧。
- ^ Vito Stellino (1991年12月25日). “Schroeder scrambling to regain job Marinovich to start vs. K.C., report says”. ボルチモア・サン. 2015年2月14日閲覧。
- ^ a b “Classic MNF: 1988 Raiders vs. Broncos”. ESPN (2002年11月6日). 2009年4月1日閲覧。
- ^ ビデオ 伝説の名勝負ベスト15 大逆転!NFL Number VIDEO ISBN 4-16-911614-3
- ^ “Greatest Moments: 1990 AFC Divisional Playoff”. raiders.com (2014年1月13日). 2015年2月14日閲覧。
- ^ Chris Dufresne (1991年1月21日). “Raiders Lost in the Shuffle, 51-3 : AFC: Buffalo takes advantage of Schroeder's five interceptions and piles up 502 yards of offense to move on to Tampa.”. ロサンゼルス・タイムズ. 2015年2月14日閲覧。
- ^ “SPORTS PEOPLE: PRO FOOTBALL; The Marinovich Watch”. ニューヨーク・タイムズ (1992年10月20日). 2015年2月14日閲覧。
- ^ “Bengals Sign Jay Schroeder”. Lodi News Sentinel (1993年5月1日). 2015年2月14日閲覧。
- ^ Steve Springer (1993年11月26日). “A Player's Thankful Day : Pro football: Bengal quarterback Jay Schroeder's youngest son was home with the family for Thanksgiving after a benign brain tumor was removed last week.”. ロサンゼルス・タイムズ. 2015年2月14日閲覧。
- ^ “PRO FOOTBALL / DAILY REPORT : AROUND THE NFL : Cardinals Sign Schroeder as No. 3 QB”. ロサンゼルス・タイムズ (1994年9月6日). 2015年2月14日閲覧。
外部リンク
[編集]- 通算成績と情報 NFL.com, or Pro-Football-Reference
- Biography of Jay Schroeder