ジュリアン・アシュトン
ジュリアン・アシュトン Julian Ashton | |
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ジョージ・ワシントン・ランバートによる肖像画 | |
生誕 |
1851年1月27日 イングランド,サリー州 |
死没 |
1942年4月27日 オーストラリア, シドニー |
ジュリアン・アシュトン(Julian Rossi Ashton OBE、1851年1月27日 - 1942年4月27日)はイギリス生まれのオーストラリアの画家、美術教師である。シドニーのジュリアン・アシュトン美術学校 (Julian Ashton Art School)の創設者である。
略歴
[編集]サリー州のアダルストン(Addlestone)に生まれた。父親は裕福なアメリカ人で母親はサルデーニャ王国の貴族で外交官のロッシ(Carlo Rossi)の娘だった。父親はアマチュア画家でもあった。ジュリアンと弟のジョージ(George Rossi Ashton:1857-1942)は父親から美術の手ほどきを受け、ジョージも後にオーストラリアで挿絵画家、イラストレーターとして活動した。
幼い頃、コンウォールのペンザンスで過ごした後、1864年に父親が亡くなった後、家族は経済的に困難に直面し、ロンドンに移り、アシュトンは15歳で鉄道会社の技術者として働くようになった。ロンドンの美術学校の夜間のコースで学び、3年後に「Chatterbox」や「Cassell's Magazine」といった雑誌の挿絵を描くようになった。1873年に数か月、パリのアカデミー・ジュリアンで学んだ。ロンドンでイラストレーターとして働きながら、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会にも出展した[1] 。
1878年にロンドンを訪れたオーストラリア、メルボルンの新聞、「ジ・エイジ」の社主とイラストレーターになる契約をして[2]、1878年6月に家族でメルボルンに移り、「llustrated Australian News.」のイラストレーター」として働き始めた。1881年に雑誌「オーストラレシアン・スケッチャー・ウィズ・ペン・アンド・ペンシル(Australasian Sketcher with Pen and Pencil)」に移った。
1883年にシドニーに移り、画集「Picturesque Atlas of Australia」の挿絵を描くために、1886年までオーストラリア各地を訪れた[2]。
1886年から美術教師としても働き始め[1]、1887年にシドニーにスタジオを開き、肖像画も描き始めた。1887年から1892年の間、ニューサウスウェールズ美術協会の会長を務め、1892年から協会の絵画教室を指導した。 1905年にシドニーに自らの美術学校を設立し、1906年にシドニー美術学校に改名し、1935年からジュリアン・アシュトン美術学校 (Julian Ashton Art School)に改名された。この学校で学んだ学生にはジョージ・ワシントン・ランバートやエリオス・グルーナーらがいる。
1930年に大英帝国勲章(OBE)を受勲した[3]。1941年に自伝「Now Came Still Evening On」を出版した[1]。91歳で亡くなる少し前まで学生を指導していた。
作品
[編集]-
ホークスベリー川(1883)
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牧場の一角(1888)
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(1888)
脚注
[編集]- ^ a b c Katherine Harper: Ashton, Julian Rossi (1851–1942). In: Australian Dictionary of Biography (Band 7), National Centre of Biography, Australian National University, Canberra 1979.
- ^ a b Julian Ashton Was Artists’ Guide & Friend. In: The Courier-Mail (Brisbane) vom 29. April 1942, S. 4.
- ^ Mr. Julian Ashton. In: The Sydney Morning Herald vom 27. Januar 1931, S. 10.
参考文献
[編集]- The Julian Ashton Book, Sydney 1920
- K. Campbell: Julian Rossi Ashton … as Art Politician. B.A. Hons thesis, University of Adelaide, Adelaide 1974.