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ジョージ・ワシントン・ランバート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョージ・ワシントン・ランバート
George Washington Lambert
自画像
生誕 1873年9月13日
ロシア, サンクトペテルブルク
死没 1930年5月29日
オーストラリアの旗 オーストラリア, Cobbitty, New South Wales
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ジョージ・ワシントン・ランバート(George Washington Thomas Lambert ARA、1873年9月13日 - 1930年5月29日)はオーストラリアの画家である。第一次世界大戦中はオーストラリア軍の公式戦争画家として働いた。

略歴

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サンクトペテルブルクでアメリカ人の父親と、イギリス人の母親の間に生まれた。父親はランバートが生まれる前に亡くなってしまい、母方の祖父の住むドイツのヴュルテンベルクで過ごした後、イギリスで教育を受けた。母親は姉たちとランバートを連れて、オーストラリアに移ることにして、家族は1887年1月にシドニーに着いた[1]。ランバートは絵を描くようになり、1894年にシドニーの展覧会に出展し、1895年に雑誌「The Bulletin」にペン画が採用された。1896年にフルタイムの画家となり[1] 、1900年までシドニーのジュリアン・アシュトンの美術学校で学んだ。ニューサウスウェールズ州の政府から奨学金を得てヨーロッパに留学し、一年間パリで修行した後、ロンドンで活動した。1911年にバルセロナの国際絵画展に出展して銀賞を受賞した。この頃は人物画家として知られていた。

第一次世界大戦が始まると、1917年にオーストラリア軍の公式戦争画家に選ばれた。1915年のトルコのガリポリ半島に上陸したオーストラリア・ニュージーランド軍団 (Australian and New Zealand Army Corps) を描いた作品は、 オーストラリア戦争記念館の戦争画コレクションで最大の絵画であった。名誉士官に任じられ、1919年にガリポリを訪れ、戦闘が行われた場所をスケッチした。

1921年にオーストラリアに戻り、個展を開き成功した。1922年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの準会員に選ばれた。1921年に制定された「オーストラリアに住む画家によって描かれた最も優れた肖像画」に与えられるアーチボルド賞に1922年に応募したが、居住条件を満たさなかったため失格となった[2]。1927年にアーチボルド賞を受賞した。

息子のモーリス・ランバート (1901-1964)は彫刻家になり、もう一人の息子コンスタント・ランバート(1905-1951)は作曲家、指揮者となった。

作品

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「ソネット」(1907)
Anzac上陸 1915」(1919)[3]
「ネック (隘路)における第3軽騎兵旅団の突撃、1915年8月7日」(1924)[4]

脚注

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  1. ^ a b Martin Terry (1983年). “Lambert, George Washington Thomas (1873 - 1930)”. Australian Dictionary of Biography, Volume 9. MUP. pp. 649–650. 2009年7月15日閲覧。
  2. ^ “Archibald Prize”. The Daily Telegraph (New South Wales, Australia) (13,621): p. 5. (6 January 1923). http://nla.gov.au/nla.news-article245836411 24 February 2019閲覧。 
  3. ^ Anzac, the landing 1915”. Australian War Memorial. 2019年6月2日閲覧。
  4. ^ The charge of the 3rd Light Horse Brigade at the Nek, 7 August 1915”. Australian War Memorial. 2019年6月2日閲覧。

参考文献

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  • Serle, Percival (1949). "Lambert, George Washington". Dictionary of Australian Biography. Sydney: Angus and Robertson. Retrieved 15 July 2009.