ジョセフ・ベンソン・フォラカー
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ジョセフ・B・フォラカー | |
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Joseph B. Foraker | |
アメリカ合衆国上院議員 オハイオ州選出 | |
任期 1897年3月4日 – 1909年3月3日 | |
前任者 | カルヴィン・S・ブライス |
後任者 | セオドア・E・バートン |
第37代 オハイオ州知事 | |
任期 1886年1月11日 – 1890年1月13日 | |
副知事 |
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前任者 | ジョージ・ホードリー |
後任者 | ジェームズ・E・キャンベル |
個人情報 | |
生誕 | Joseph Benson Foraker 1846年7月5日 アメリカ合衆国 オハイオ州ハイランド郡 |
死没 | 1917年5月10日(70歳没) アメリカ合衆国 オハイオ州シンシナティ |
墓地 | スプリング・グローブ墓地 |
政党 | 共和党 |
配偶者 | ジュリア・A・P・バンディ (結婚 1870年) |
子供 | 5人 |
出身校 |
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専業 |
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署名 | |
兵役経験 | |
渾名 | ファイア・アラーム・ジョー |
所属国 | アメリカ合衆国 |
所属組織 | アメリカ陸軍 (北軍) |
軍歴 | 1862年7月14日 – 1865年6月13日 |
最終階級 | 大尉 |
部隊 | 第89オハイオ歩兵連隊 |
ジョセフ・ベンソン・フォラカー(Joseph Benson Foraker、1846年7月5日 - 1917年5月10日)はアメリカ合衆国オハイオ州の共和党の政治家。第37代オハイオ州知事。
伝記
[編集]フォラカーはオハイオ州ハイランド郡レインズボロ (Rainsboro) 近郊で生まれた。南北戦争時に北軍で戦った後、フォラカーはそこでファイ・カッパ・サイのメンバーでもあったコーネル大学に通った。1883年にオハイオ州知事選に出馬して落選するも、2年後に当選し、1886年から1890年まで2期4年を務めた。フォラカーは1896年に連邦上院議員に当選し1897年から1909年まで2期を務めた。その間に、フォラカー法として知られる、アメリカが新たに獲得したプエルトリコ島に民政府 (civil government) を設立する1900年の基本法 (the Organic Act of 1900) を提案した。 フォラカーは1908年の3選はならず、同年の大統領選挙の共和党の指名の候補者のうちの一人となった。レインズボロのおよそ10マイル西のハイランド郡郡庁所在地ヒルズボロの通りの "Governor Foraker Place" は彼から名づけられたものである。
南北戦争
[編集]フォラカーは第96オハイオ歩兵連隊のA中隊の兵卒であった。19歳の時には既に13の主要な戦いに参加して来ており、中尉と名誉大尉 (Brevet Captain) に昇進した(The Centennial History of the Phi Kappa Psi Fraternity による)。
外部リンク
[編集]- United States Congress. "Joseph B. Foraker (id: F000253)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
- Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). 1911. .
- Appletons' Cyclopædia of American Biography (英語). 1900. .
- Image of Joseph Foraker from "1888 Presidential Possibilities" card set t207.com