ジョゼ・アビーリオ・オゾリオ・ソアレス
ジョゼ・アビーリオ・オゾリオ・ ソアレス José Abílio Osório Soares | |
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生年月日 | 1947年6月2日 |
出生地 | ポルトガル領ティモール |
没年月日 | 2007年6月17日(60歳没) |
死没地 | インドネシア、東ヌサ・トゥンガラ州、クパン |
所属政党 | ゴルカル |
配偶者 | マリア・アンジェラ・コレイア・デ・レモス・オゾリオ・ソアレス |
東ティモール州知事 | |
在任期間 | 1992年9月18日 - 1999年10月19日 |
大統領 |
スハルト ユスフ・ハビビ |
ジョゼ・アビーリオ・オゾリオ・ソアレス(ポルトガル語: José Abílio Osório Soares, 1947年6月2日 - 2007年6月17日)は、インドネシアの政治家。
経歴
[編集]ポルトガル領ティモールにて誕生する。インドネシアによる東ティモール占領時代、ソアレスはディリ市長、後に故郷マナトゥト県のブパティとなり、1992年9月18日から1999年10月19日まで東ティモール最後の州知事を務めた。就任直後、その直前に起きたサンタクルス事件についてソアレスは、「もっと多くの人が死ぬべきだった」と発言し、世界中から批判された[1]。
1994年5月、東ティモール紛争を解決するためにインドネシア国内での自治を提案したが、インドネシアのスハルト大統領に違憲として拒否された。その後ソアレスは懲戒処分とされ、ジャカルタに4ヶ月間の軍事研修に送られた。
1997年9月からのソアレスの2期目の任期中に、同族会社アナク・リアンバウ・グループに関連した汚職事件への関与があまりにも大規模になったため[2]、1998年にスリョ・プラボウォ副知事が抗議の辞任をした。1998年5月のスハルト辞任後、東ティモールではソアレスの汚職疑惑をめぐって激しいデモが起こった。同時に、独立の是非を問う住民投票を求める世論の圧力も高まった。
ソアレスは、8月30日の住民投票後に全国を席巻した親インドネシア民兵の増強と、その後の東ティモール壊滅に重要な役割を果たした。また、ソアレスは1999年4月6日のリキシャ教会虐殺、1999年4月17日の独立指導者マヌエル・カラスカラン邸での虐殺事、1999年9月6日のカルロス・フィリペ・シメネス・ベロ司教邸での虐殺、スアイ教会虐殺などのいくつかの事件の直接責任者とされてきた。これらの事件に関連して、ソアレスはこれらの犯罪を防ぐために何もしなかったと非難された。後に東ティモールを独立に導いた東ティモール国際軍の介入と、国際連合東ティモール暫定行政機構による占領により、ソアレスは退陣した。ソアレスは4日間の昏睡状態の後、2007年6月17日に癌のためクパンで死去した。
東ティモールの反対にもかかわらず、ソアレスはインドネシア政府によって国家英雄葬が執り行われた。東ヌサ・トゥンガラ州副知事のフランス・レブ・ラヤは葬儀には参列しなかったが、インドネシアのスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領から送られた花輪を捧げた。葬儀に参列した他の要人には、プラボウォ・スビアント中将、ザッキー・アンワル・マカリム少将、キキ・シャナクリ元陸軍副参謀長、アブラハム・オクタビアヌス・アトゥルリ西パプア州知事など、インドネシアによる占領時代に大きな物議を醸した人物が含まれていた。
遺体はクパンのダルマ・ロカ英雄墓地に埋葬された。
脚注
[編集]- ^ “Abilio Soares - Master of Terror”. syaldi.web.id. 8 May 2021時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月12日閲覧。
- ^ “Unmasking the interests behind the pro-Jakarta militias”. www.etan.org. 12 June 2022時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月12日閲覧。