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ジョン・カートレット (第2代グランヴィル伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第2代グランヴィル伯爵
ジョン・カートレット
John Carteret
2nd Earl Granville
生年月日 1690年4月22日
没年月日 (1763-01-02) 1763年1月2日(72歳没)
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党 ホイッグ党
称号 第2代グランヴィル伯爵、第2代カートレット男爵ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)
配偶者 (1)フランセス(旧姓ウォースレイ)
(2)ソフィア(旧姓ファーマー)

内閣 ウォルポール=タウンゼンド内閣
在任期間 1721年3月4日 - 1724年3月31日

内閣 ウォルポール=タウンゼンド内閣
在任期間 1724年5月6日 - 1730年6月23日

内閣 カートレット内閣
在任期間 1742年2月12日 - 1744年11月24日

内閣 ブロード・ボトム内閣第1次ニューカッスル公爵内閣ピット=デヴォンシャー公爵内閣第2次ニューカッスル公爵内閣ビュート伯爵内閣
在任期間 1751年6月17日 - 1763年1月2日

グレートブリテン王国の旗 貴族院議員
在任期間 1711年5月25日 - 1763年1月2日
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第2代グランヴィル伯爵、第2代カートレット男爵ジョン・カートレット英語: John Carteret, 2nd Earl Granville, 2nd Baron Carteret, KG, PC1690年4月22日 - 1763年1月2日)は、イギリス政治家貴族

ホイッグ党の政治家だが、第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーの派閥に属し、反ウォルポール的な立場をとった。ウォルポール失脚後には事実上の首相になっていたが、ウォルポール派のヘンリー・ペラムらとの闘争に敗れて失脚した。

経歴

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前半生

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1690年4月22日、初代カートレット男爵ジョージ・カートレットとその妻グレイス(初代バース伯爵英語版ジョン・グランヴィル英語版の娘)の間の長男として生まれる[1][2]。初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューは父方の曾祖父に当たる。

5歳の時の1695年9月22日に父の死により第2代カートレット男爵を継承[1]ウェストミンスター・スクールを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶ[1]

1711年5月25日から貴族院議員に列し、ホイッグ党に所属した。国王ジョージ1世からも信任を受け、1714年10月に寝室侍従紳士英語版1715年7月にはジャージー土地管理官英語版、1716年7月にはデヴォン知事英語版に就任[1]

1717年に第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンドが解任されたことでホイッグ党が分裂した際には第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーの派閥に属した[1]

1719年6月から大北方戦争スウェーデン女王ウルリカ・エレオノーラとの講和の特使としてスウェーデンに派遣された。その交渉でカートレットはバルト海で損害を被った全イギリス臣民への補償、バルト海でのイギリス船籍の航行の自由の保障を取り付ける事に成功し、ストックホルム条約が締結される運びとなった[1]

ウォルポール内閣で

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1721年3月にロバート・ウォルポール政権の南部担当国務大臣に就任すると共に枢密顧問官となる[1]。ウォルポール政権下では外交を担当、ジョージ1世の信任も厚く、1723年夏には国王に随伴して大陸に渡っている[3]。しかしその国王からの信任ぶりと、サンダーランド派として反ウォルポール的だったことから、ウォルポールから危険視された。そのため1724年春には外交上の失態を理由にしてアイルランド総督に左遷された[4][3]

アイルランド総督在任中、アイルランド貨幣鋳造権を得たイングランド人ウィリアム・ウッドが「ウッドの半ペンス」と呼ばれた銅貨を大量発行し、これが原因でアイルランド人の抵抗運動が激しくなった。国務大臣時代のカートレットは、ウォルポールへの対抗からアイルランドに融和的だったが、立場上厳しい弾圧をしなければならなくなった。しかし効果は上がらず、アイルランド人の抵抗運動は激しくなる一方だった。結局ウォルポールがウッドの貨幣鋳造権を撤回することを宣言することで事態の収拾を図った[5]1730年にウォルポールは政権内主導権を一層固めるために反抗的なタウンゼンド子爵を解任、直後にカートレットもアイルランド総督から解任した[6]

ウォルポール退陣後の政界で

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1741年総選挙で与党ウォルポール派ホイッグの議席が大幅に減り、1742年2月にウォルポールは退陣した。カートレットは反ウォルポール派から待望され、後継の初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトン内閣北部担当国務大臣として入閣し、同内閣の主導的地位に就いた。ただし当時の国王の閣僚人事権はいまだ大きかったので、ウォルポール派のペラム兄弟(初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリスヘンリー・ペラム)も国王ジョージ2世の意向で政権に留まった[7]

同君連合ハノーファー選帝侯領の防衛を重視するカートレットは、1743年中にオーストリア継承戦争の指揮を執るために大陸へ向かったジョージ2世に随伴して本国を不在にした。その間の1743年7月に首相ウィルミントン伯が死去したが、カートレット不在のため、後任にはヘンリー・ペラムが就任した。カートレットは秋に帰国したが、その時までにはペラム兄弟は政権内で確固たる地位を確立しており、カートレットの孤立は深まった。カートレットのハノーファー優先策は政府内ではペラム兄弟から、議会では大ピットら反政府派ホイッグから批判に晒された[8]

1744年10月18日には母の死により第2代グランヴィル伯爵位を継承した[1]。同年11月の議会招集直前、ペラムはグランヴィル伯の更迭をジョージ2世に上奏し、渋っていた国王に強引に解任を認めさせた。しかしグランヴィルは親ハノーファー派として国王から厚く信任されており、解任後も国王から助言を求められつづけた。国王はグランヴィル内閣を発足させようと画策もしたが、議会の支持が得られずに失敗に終わっている[9]

それでも国王の強い寵愛で1749年にはガーター勲章を受勲し、1751年から死去まで5代の内閣において枢密院議長を務めた。1763年1月2日にバースで死去、72歳であった[1]。爵位は長男のロバート・カートレットが継承した。

栄典

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爵位/準男爵位

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1695年9月22日の父ジョージ・カートレットの死去により以下の爵位・準男爵位を継承した[2]

1744年10月18日の母グレイス・カートレットの死去により以下の爵位を継承した[2]

勲章

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家族

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2度結婚している。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j "Carteret, John (1690-1763)" . Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.
  2. ^ a b c d e Lundy, Darryl. “John Carteret, 2nd Earl Granville” (英語). thepeerage.com. 2015年8月12日閲覧。
  3. ^ a b 今井宏編 1990, p. 291.
  4. ^ 浜林正夫 1983, p. 419.
  5. ^ 今井宏編 1990, p. 292.
  6. ^ 今井宏編 1990, p. 295.
  7. ^ 今井宏編 1990, p. 302-303.
  8. ^ 今井宏編 1990, p. 303-304.
  9. ^ 今井宏編 1990, p. 304-306.

参考文献

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公職
先代
ジェームズ・クラッグス
南部担当国務大臣
1721年 - 1724年
次代
初代ニューカッスル公爵
先代
第2代グラフトン公爵
アイルランド総督
1724年 - 1730年
次代
初代ドーセット公爵
先代
初代ハリントン伯爵
北部担当国務大臣
1742年 - 1744年
次代
初代ハリントン伯爵
貴族院院内総務
1742年 - 1744年
先代
初代ドーセット公爵
枢密院議長
1751年 - 1763年
次代
第4代ベッドフォード公爵
名誉職
先代
サー・ウィリアム・コートネイ準男爵
デヴォン統監英語版
1716年 - 1721年
次代
第14代クリントン男爵
グレートブリテンの爵位
先代
グレース・カートレット
第2代グランヴィル伯爵
第1期
1744年 - 1763年
次代
ロバート・カートレット
イングランドの爵位
先代
ジョージ・カートレット
第2代カートレット男爵
第1期
1695年 - 1763年
次代
ロバート・カートレット
その他の役職
先代
チャールズ・ド・カートレット英語版
第7代サーク領主英語版
1715年 - 1720年
次代
ジョン・ジョンソン英語版