ジョン・ラッセル (第4代ベッドフォード公)
第4代ベッドフォード公爵 ジョン・ラッセル John Russell 4th Duke of Bedford | |
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トマス・ゲインズバラ画のベッドフォード公 | |
生年月日 | 1710年9月30日 |
出生地 | グレートブリテン王国・イングランド・サリー・ストリーサム |
没年月日 | 1771年1月5日(60歳没) |
死没地 | グレートブリテン王国・イングランド・ロンドン・ブルームスベリー・ベッドフォード地所 |
所属政党 | ホイッグ党 |
称号 | 第4代ベッドフォード公爵、ガーター勲章勲章士(KG)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS) |
内閣 | ペラム内閣 |
在任期間 | 1744年12月27日 - 1748年2月26日 |
内閣 | ペラム内閣 |
在任期間 | 1748年12月12日 - 1751年6月13日 |
在任期間 | 1757年1月3日 - 1761年4月3日 |
内閣 |
第2次ニューカッスル公内閣 ビュート伯内閣 グレンヴィル内閣 |
在任期間 | 1761年11月25日 - 1763年4月22日 |
内閣 | グレンヴィル内閣 |
在任期間 | 1763年9月9日 - 1765年7月12日 |
その他の職歴 | |
貴族院議員 (1732年10月23日 - 1771年1月5日) | |
駐仏イギリス大使 (1762年4月4日 - 1763年6月1日) |
第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセル(英: John Russell, 4th Duke of Bedford, KG, PC, FRS、1710年9月30日 - 1771年1月5日)は、イギリスの政治家、貴族、軍人。
経歴
[編集]1710年9月30日、イングランド・サリー・ストリーサムに生まれる[1]。父は第2代ベッドフォード公ライオセスリー・ラッセル、母はその妻エリザベス(旧姓ホウランド)[2]。彼は夫妻の末子四男であり、長兄と次兄は早世、三兄が第3代ベッドフォード公となるライオセスリー・ラッセルだった[3]。
家庭教育を受けた後、大陸へグランドツアーに出た[2]。1732年10月23日に兄である3代ベッドフォード公が若くして死去したため、代わって彼が4代ベッドフォード公位を継承した。先代はギャンブル好きで25万ポンドも負けるという重荷を残していたが、4代公の努力によりベッドフォード公爵家は財産を順調に回復させていき、デヴォンシャー公爵、ノーサンバーランド公爵、ブリッジウォーター公爵とならぶ4大資産家の地位を取り戻している[4]。
また貴族院議員としては初めカートレット卿が指導する反ウォルポール・ホイッグの党派に属した[2]。1742年にウォルポール内閣が倒れ、カートレット卿が権力を握ったが、ベッドフォード公は政府のハノーファー優先策を批判した[2]。
カータレット失脚後の1744年12月、ヘンリー・ペラム内閣の海軍大臣に就任した[2]。さらに1748年2月には南部担当国務大臣 に転じる[2]。しかし閣内でベッドフォード公は初代ニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズと対立を深めたため、1751年6月をもって内閣を追われた[5]。
1756年12月から1761年にかけてアイルランド総督を務めた[1]。
帰国後の1761年11月に第2次ニューカッスル公爵内閣の王璽尚書に就任し、続く第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアート内閣でも留任。この際にはビュート伯の指示で七年戦争の講和のためにパリへ派遣されており、彼が交渉を行った結果、1762年11月にフォンテンブロー条約が締結されて七年戦争が終結している[6]。続くジョージ・グレンヴィル内閣には枢密院議長に就任した。同内閣でベッドフォード公の派閥はアメリカ植民地やジョン・ウィルクスに対して強硬姿勢を取るべき事を訴えた[7]。
植民地に対して温和な見解を有する大ピットとは意見が合わなかった。そのため大ピット内閣に対してはベッドフォード公派は野党の立場をとっていたが、1767年末には政権に参加している。これによって内閣は植民地に対して強硬になり、大ピットら対植民地穏健派は内閣を追われることとなった[8]。
彼は陸軍軍人としてもキャリアを積んでおり、中将まで昇進している[9]。
1771年1月5日、ロンドン・ブルームスベリー・ベッドフォード地所の屋敷において死去した[1]。
栄典
[編集]爵位
[編集]- 1732年10月23日、第4代ベッドフォード公爵(1694年創設イングランド貴族爵位)
- 1732年10月23日、第4代タヴィストック侯爵(1694年創設イングランド貴族爵位)
- 1732年10月23日、第8代ベッドフォード伯爵(1550年創設イングランド貴族爵位)
- 1732年10月23日、第8代ラッセル男爵(1539年創設イングランド貴族爵位)
- 1732年10月23日、第6代ソーンホーのラッセル男爵(1603年創設イングランド貴族爵位)
- 1732年10月23日、第4代ストリーサムのホウランド男爵(1695年創設イングランド貴族爵位)[1]
勲章
[編集]名誉職その他
[編集]- 1739年、捨子養育院初代総裁[10]
- 1742年3月11日、王立協会フェロー(FRS)
- 1744年12月27日、枢密顧問官(PC)
- 1751年4月13日-1771年、デヴォン知事
- 1745年5月28日-1771年、ベッドフォードシャー知事[1]
- 1765年-1771年、ダブリン大学学長[11]
家族
[編集]1731年、第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーの娘ダイアナ(1710-1735)と結婚し、彼女との間に長男ジョン(1732)を儲けたが、この長男は早世した。1735年にはダイアナと死別し、1737年に初代ゴア伯爵ジョン・ルーソン=ゴアの娘ガートルード(1715-1794)と再婚。彼女との間に次男フランシス(1739-1767)と長女キャロライン(1743-1811)を儲ける[1]。次男フランシスには先立たれ、5代ベッドフォード公の爵位はフランシスの長男フランシス(1765-1802)に受け継がれる[12]。長女キャロラインは第4代マールバラ公爵ジョージ・スペンサーと結婚した[13]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g Lundy, Darryl. “Lt.-Gen. John Russell, 4th Duke of Bedford” (英語). thepeerage.com. 2015年3月5日閲覧。
- ^ a b c d e f Hunt, William (1897). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 49. London: Smith, Elder & Co. . In
- ^ Lundy, Darryl. “Wriothesley Russell, 2nd Duke of Bedford” (英語). thepeerage.com. 2015年3月5日閲覧。
- ^ 森(1987) p.222-224
- ^ 今井(1990) p.308-309
- ^ 今井(1990) p.328
- ^ 今井(1990) p.360
- ^ 今井(1990) p.335
- ^ 森(1987) p.224
- ^ (英語) A Copy of the Royal Charter Establishing an Hospital for the Maintenance and Education of Exposed and Deserted Young Children. p. 3
- ^ "Former Chancellors 1592 -". Trinity College Dublin (英語). 2020年12月20日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “Francis Russell, Marquess of Tavistock” (英語). thepeerage.com. 2015年3月5日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “Lady Caroline Russell” (英語). thepeerage.com. 2015年3月5日閲覧。
参考文献
[編集]- 今井宏 編『イギリス史〈2〉近世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1990年。ISBN 978-4634460201。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。
公職 | ||
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先代 第8代ウィンチルシー伯爵 |
海軍大臣 1744年 – 1748年 |
次代 第4代サンドウィッチ伯爵 |
先代 初代ニューカッスル公爵 |
南部担当国務大臣 1748年 – 1751年 |
次代 第4代ホルダーネス伯爵 |
先代 第4代デヴォンシャー公爵 |
アイルランド総督 1757年 – 1761年 |
次代 第2代ハリファックス伯爵 |
先代 第2代テンプル伯爵 |
王璽尚書 1761年 – 1763年 |
次代 第4代マールバラ公爵 |
先代 第2代グランヴィル伯爵 |
枢密院議長 1763年 – 1765年 |
次代 第8代ウィンチルシー伯爵 |
外交職 | ||
先代 七年戦争のため設置されず |
駐仏イギリス大使 1762年 – 1763年 |
次代 初代ハートフォード伯爵 |
名誉職 | ||
先代 新設 |
孤児養育院院長 1739年 – 1771年 |
次代 ノース卿 |
先代 初代ケント公爵 |
ベッドフォードシャー知事 1745年 – 1771年 |
次代 第2代アッパー・オソリー伯爵 |
先代 第2代オーフォード伯爵 |
デヴォン知事 1751年 – 1771年 |
次代 第3代ポーレット伯爵 |
学職 | ||
先代 カンバーランド公爵 |
ダブリン大学学長 1765年 – 1771年 |
次代 グロスター=エディンバラ公爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 ライオセスリー・ラッセル |
第4代ベッドフォード公爵 1732年 – 1771年 |
次代 フランシス・ラッセル |