コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ジョン・レスリー (物理学者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
John Leslie
John Leslie
生誕 1766年4月10日
ファイフ、Largo
死没 1832年11月3日(66歳)
国籍 スコットランド
研究分野 数学
物理学
主な業績 熱の研究
レスリーキューブ
影響を
受けた人物
デイヴィッド・ヒューム[1]
主な受賞歴 ランフォード・メダル (1804)
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示
Sir John Steellによるジョン・レスリー卿

ジョン・レスリー卿(Sir John Leslie, FRSE英語版 KH英語版1766年4月10日 - 1832年11月3日)は、スコットランドの数学者、物理学者であった。熱に関する研究で有名である[2]

1802年に初めて毛細管現象に対し現代的な説明を与え[3]、1810年に空気ポンプを用いて水を凍らせ、初めて人工的なを作成した。

1804年、沸騰水で満たされた立方体容器を用いて放射熱の実験を行った。立方体の1つの面はよく磨かれた金属、2つの面は粗い金属であり1つの面が黒く塗られていた。放射は黒い面からが最も大きく、磨いた面からのものは無視できることを示した。この装置はレスリーキューブとして知られる。

前期

[編集]

建具屋で家具職人の父ロバート・レスリーと母アン・カーステアーズの間にファイフのLargoに生まれた[4]。Levenで幼少期の教育を受けた。13歳の時、レスリーの数学と物理科学の適性を認めていた友人に勧められ、セント・アンドルーズ大学に入学した。1784年にコースを修了したのち名義上はエディンバラ大学で神学を学んだが、それ以上の学位は得なかった。

1788年から1789年までバージニアの家族の家庭教師を1年以上務め、1791年から1792年の終わりまでStaffordshire、Etruriaのジョサイア・ウェッジウッドの家族で同じような職を務めた。暇な時間を実験的研究とビュフォンの1793年に9巻出版された Natural History of Birds の翻訳の準備に用いた。翻訳はお金にもなった。

中期

[編集]
A Short Account of Experiments and Instruments, Depending on the Relations of Air to Heat and Moisture扉絵
エディンバラ、62クイーンストリートにあるレスリーの家L

その後12年間(主にロンドンもしくはLargoに住みときどきヨーロッパ大陸を訪問)、物理研究を続け、その結果多くの論文がニコルソンPhilosophical Journalに寄稿され、ロンドンの王立協会ランフォード・メダルを受賞したExperimental Inquiry into the Nature and Properties of Heatを発表した。

レスリーを異端であると非難した党による暴力的な反対にもかかわらず、1805年エディンバラの数学長であったジョン・プレイフェアの後任に選ばれた。

この就任中にA Course of Mathematicsの2巻(1809年に出版された第1巻Elements of Geometry, Geometrical Analysis and Plane Trigonometry、1813年の第2巻Geometry of Curve Lines)を発表した。Descriptive Geometry and the Theory of Solidsと題した3巻は未完である。1810年に行った人工製氷過程の発明に関して、1813年にA Short Account of Experiments and Instruments depending on the relations of Air to Heat and Moistureを発表した。1818年の論文On certain impressions of cold transmitted from the higher atmosphere, with an instrument (the aethrioscope) adapted to measure themTransactions of the Royal Society of Edinburghに掲載された。

1807年にエディンバラ王立協会英語版のメンバーとなった[5]。提案したのはジョン・プレイフェア、Thomas Charles Hope、George Dunbarであった[4]

後期

[編集]

1819年にジョン・プレイフェアが亡くなった際、自然哲学長に昇進し、亡くなるまでその地位にあった。掛け算表に関する有名な本The Philosophy of Arithmeticを1820年に発表している[6]。1823年、授業に使うのを主な目的としてElements of Natural Philosophy(未完)の第1巻を出版した。

レスリーの物理学に対する主な寄与は、その発明に関してランフォード伯と争った器具である示差温度計の助けによってなされた[7]。この器具に様々な独創的装置を付けることで側光、吸湿性、空間の温度などと関連する多種多様な研究に使うことができた。1820年、自身が唯一高く評価したフランス研究所の客員に選出され、1832年初めにはナイトに叙された。

晩年はエディンバラ新市街の62クイーンストリートにある大きなジョージ様式のアパートに住んでいたとされている[8]

1832年11月にファイフのLargo近くに得た小さな土地であるCoatesで66歳でチフスにより亡くなった[9]。この年はチフスが流行していた年であった。

無神論者であった[10]

家族

[編集]

未婚であり子供はいなかった。

兄弟にLargoで建築家・建築者であるAlexander Leslieがおり、その息子でジョンからは甥に当たる人物に土木技師のJames Leslieがいる。この甥Jamesの息子はAlexander Leslieである。

主な著作

[編集]

伝記

[編集]
  • E. M. Horsburgh (1933). "The Works of Sir John Leslie (1766–1832)". Mathematical Notes, 28, pp i-v. doi:10.1017/S1757748900002279.

脚注

[編集]
  1. ^ The Reception of David Hume In Europe, edited by Peter Jones, Continuum International Publishing Group, 2005, p. 333.
  2. ^ "Leslie, John (1766-1832)" . Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.
  3. ^ Leslie, John (1802). “On capillary action”. Philosophical Magazine 14: 193–205. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=pst.000068484644;view=1up;seq=205. 
  4. ^ a b Biographical Index of Former Fellows of the Royal Society of Edinburgh 1783 – 2002. The Royal Society of Edinburgh. (July 2006). ISBN 0 902 198 84 X. https://www.royalsoced.org.uk/cms/files/fellows/biographical_index/fells_indexp2.pdf 
  5. ^ Transactions of the Royal Society of Edinburgh, vol. 9, p. 518.
  6. ^ Leslie, John (1820). The Philosophy of Arithmetic; Exhibiting a Progressive View of the Theory and Practice of Calculation, with Tables for the Multiplication of Numbers as Far as One Thousand. Edinburgh: Abernethy & Walker 
  7. ^ Photographs of differential thermometers.
  8. ^ Edinburgh Post Office annual directory, 1832-1833”. National Library of Scotland. p. 108. 2018年2月17日閲覧。
  9. ^ London Medical and Surgical Journal, January 1833
  10. ^ "In these years Leslie was an unsuccessful candidate for the chairs of natural philosophy at the universities of St Andrews and Glasgow respectively. He failed at the former because he was then an extreme whig and an atheist who deplored the Erastianism of many of the Scottish clergy." Jack Morrell, 'Leslie, Sir John (1766–1832)', Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004 (accessed May 2, 2008).
  11. ^ Géométrie descriptive is a book by Monge (1799).

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]