ジョヴァンニ・ゴリーア
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ジョヴァンニ・ゴリーア Giovanni Goria | |
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生年月日 | 1943年7月30日 |
出生地 | ピエモンテ州アスティ |
没年月日 | 1994年5月21日(50歳没) |
死没地 | ピエモンテ州アスティ |
出身校 | トリノ大学 |
所属政党 | キリスト教民主主義(1960年 - 1994年) |
第45代首相(閣僚評議会議長) | |
在任期間 | 1987年7月29日 - 1988年4月13日 |
大統領 | フランチェスコ・コッシガ |
選挙区 | ピエモンテ州選挙区 |
在任期間 | 1976年 - 1993年 |
ジョヴァンニ・ゴリーア(Giovanni Goria、1943年7月30日 - 1994年5月21日)は、イタリアの政治家。
経歴
[編集]トリノ大学を卒業した後、1960年にキリスト教民主主義(DC)に入党。1976年、代議院議員に初当選した。
1982年から1987年まで、アミントレ・ファンファーニ内閣やベッティーノ・クラクシ内閣の財務大臣を歴任する。ルーブル合意に出席した際には、あらかじめG5間で合意が済んでいたことや会議がアメリカ主導であったことに不快感を示し、会議の途中で帰国している[1]。
1987年7月28日、首相に任命される。ゴリーア内閣はDC、イタリア社会党、イタリア共和党、イタリア民主社会党、イタリア自由党の5党連立で組閣された。44歳での首相就任は、イタリアが共和制に移行してからの最年少での就任であった。
1987年、チェルノブイリ原子力発電所事故を受けて、原発建設における政府権限の制限を問う国民投票を実施。結果、原発関係の現行法の廃止に圧倒的多数の票が集まり、ゴリーアは原発建設を当分の間凍結すると発表した[2]。
しかし、連立与党の足並みの乱れから、1988年4月にゴリーア内閣は総辞職する[3]。
その後、1989年に欧州議会議員に選出される。1991年ジュリオ・アンドレオッティ内閣の農林政策大臣に就任し、ジュリアーノ・アマート内閣では財務大臣に就いた。しかし、1993年に収賄容疑に問われ、1994年5月21日に肺癌で急逝した[4]。
脚注
[編集]- ^ 8. ルーブル合意-バブルと国際政治:日銀を追い込んだ政治的背景 研究ノート-京都学園大学 経済学部 宮川重義
- ^ イタリア/原子力政策の選択に関する国民投票(87年) 国民投票/住民投票 情報室
- ^ 第4節西欧 昭和63年版外交青書
- ^ Giovanni Giuseppe Goria Britannica.com
関連項目
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