スキピオ家
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スキピオ家(スキピオけ、Scipiones)は、古代ローマの家族名のひとつ。コルネリウス氏族に属するパトリキ系の家門で、最も有名な家門として知られている。特に共和政ローマ中期、ポエニ戦争の際には多くの有能な人材を輩出した。紀元前3世紀にまで遡るスキピオ家の墓の石碑は1780年に再発見され、共和政ローマにおける重要な資料として、最初期のラテン語の文献資料としても重要視されている。また、イタリア国歌マメーリの賛歌にも歌われている。
メンバー
[編集]- プブリウス・コルネリウス・スキピオ:紀元前395年の執政武官[1]。歴史に最初に現れるスキピオ家の人物
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ:紀元前340年のケンソル(監察官)[2]
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ (紀元前350年の執政官)[3]:スキピオ家最初のコンスル(執政官)
- グナエウス・コルネリウス・スキピオ
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ・バルバトゥス:紀元前298年の執政官[4]
- グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ:紀元前260年[5]と紀元前254年の執政官[6]。バルバトゥスの年長の息子
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ (紀元前259年の執政官)[8]:バルバトゥスの下の息子
- グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス:紀元前222年の執政官[9]
- コルネリア
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ:紀元前191年の執政官[10]。カウルスの息子
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム:紀元前162年[11]と紀元前155年の執政官[12]。ナシカの息子
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ:紀元前138年の執政官[13]。コルクルムの子で、大スキピオの母方の孫
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ (紀元前111年の執政官)[14]:紀元前138年の執政官セラピオの子
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ:紀元前93年のプラエトル[15]。紀元前111年の執政官セラピオの子
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ:紀元前52年の執政官[16]。紀元前111年の執政官セラピオの実の孫。最後に活躍した「スキピオ」
- コルネリア
- ルキウス・リキニウス・クラッスス・スキピオ
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ:紀元前52年の執政官[16]。紀元前111年の執政官セラピオの実の孫。最後に活躍した「スキピオ」
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ:紀元前93年のプラエトル[15]。紀元前111年の執政官セラピオの子
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ (紀元前111年の執政官)[14]:紀元前138年の執政官セラピオの子
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ:紀元前138年の執政官[13]。コルクルムの子で、大スキピオの母方の孫
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム:紀元前162年[11]と紀元前155年の執政官[12]。ナシカの息子
- グナエウス・コルネリウス・スキピオ・ヒスパッルス:紀元前176年の執政官[17]。カウルスの息子
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ:紀元前218年の執政官[21]。紀元前259年の執政官の息子
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ):紀元前205年の執政官[22]。紀元前218年の執政官の子。第2次ポエニ戦争の英雄
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ (アフリカヌスの子):紀元前180年からのアウグル[23]
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ):紀元前134年の執政官[24]。第3次ポエニ戦争の英雄
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ:紀元前174年のプラエトル・ペレグリヌス[25]
- コルネリア:スキピオ・ナシカ・コルクルムの妻
- コルネリア・アフリカナ:ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルの妻[26]
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ (アフリカヌスの子):紀元前180年からのアウグル[23]
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクス:紀元前190年の執政官[27]。大スキピオの弟。アシアゲヌスとも
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ:紀元前168年のトリブヌス・ミリトゥム[28]
- コルネリウス・スキピオ・アシアゲヌス・コマトゥス
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクス (紀元前83年の執政官)[29]:紀元前190年の執政官のひ孫
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ
- コルネリア
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクス (紀元前83年の執政官)[29]:紀元前190年の執政官のひ孫
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ:紀元前168年のトリブヌス・ミリトゥム[28]
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ):紀元前205年の執政官[22]。紀元前218年の執政官の子。第2次ポエニ戦争の英雄
- グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス:紀元前222年の執政官[9]
- ルキウス・コルネリウス・スキピオ・バルバトゥス:紀元前298年の執政官[4]
- グナエウス・コルネリウス・スキピオ
その他
[編集]- グナエウス・コルネリウス・スキピオ・バルバトゥス:紀元前304年からの最高神祇官[30]
- グナエウス・コルネリウス・スキピオ:紀元前218年の植民市建設三人委員[31]
- グナエウス・コルネリウス・スキピオ:紀元前177年のプラエトル?[32]
- マルクス・コルネリウス・スキピオ・マルギネンシス:紀元前176年のプラエトル[17]
- コルネリウス・スキピオ:紀元前77年のレガトゥス[33]
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ:紀元前35年の補充執政官[34]
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ:紀元前2世紀のフラメン・ディアリス[35]
出典
[編集]- ^ MRR1, p. 89.
- ^ MRR1, p. 136.
- ^ MRR1, p. 127.
- ^ MRR1, p. 174.
- ^ MRR1, p. 205.
- ^ MRR1, p. 210.
- ^ MRR1, p. 233.
- ^ MRR1, p. 206.
- ^ MRR1, p. 232.
- ^ MRR1, p. 352.
- ^ MRR1, p. 441.
- ^ MRR1, p. 448.
- ^ MRR1, p. 483.
- ^ MRR1, p. 540.
- ^ MRR2, p. 14.
- ^ MRR2, p. 234.
- ^ a b MRR1, p. 400.
- ^ MRR1, p. 477.
- ^ MRR1, p. 482.
- ^ MRR1, p. 546.
- ^ MRR1, p. 237.
- ^ MRR1, p. 301.
- ^ MRR1, p. 390.
- ^ MRR1, p. 490.
- ^ MRR1, p. 404.
- ^ リウィウス『ローマ建国史』38.57
- ^ MRR1, p. 356.
- ^ MRR1, p. 429.
- ^ MRR2, p. 62.
- ^ MRR1, p. 168.
- ^ MRR1, p. 240.
- ^ MRR1, p. 398.
- ^ MRR2, p. 91.
- ^ MRR2, p. 406.
- ^ MRR2, p. 486.
参考文献
[編集]- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
- T. R. S. Broughton (1952). The Magistrates of the Roman Republic Vol.2. American Philological Association
- RE Cornelius 317ff, 353