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スティーブ・オルソノスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スティーブ・オルソノスキー
スティーブ・オルソノスキーの画像
1983年
プロフィール
リングネーム スティーブ・オルソノスキー
スティーブ・O
本名 ステファン・L・オルソノスキー
身長 186cm
体重 103kg - 107kg
誕生日 (1954-07-03) 1954年7月3日(70歳)[1]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミネソタ州の旗 ミネソタ州
ヘネピン郡イーダイナ
トレーナー バーン・ガニア
ビル・ロビンソン
デビュー 1978年
引退 1991年
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スティーブ・オルソノスキーSteve Olsonoski、本名:Stephen L. Olsonoski1954年7月3日[1] - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーミネソタ州イーダイナ出身のポーランド系アメリカ人[2]

スティーブ・OSteve O)の略称でも知られる[3]。地元ミネソタのAWAを主戦場に、クリーンファイトを身上とする正統派の二枚目ベビーフェイスとして活躍した[3]

来歴

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ミネソタ大学卒業後、体育教師を経て、AWAの総帥バーン・ガニアのレスリング・キャンプでトレーニングを受け1978年にデビュー(父親のラリー・オルソノスキーもミネソタ大学出身であり、ガニアとはアメリカンフットボールのチームメイトであったという)[4]

グリーンボーイ時代はブラックジャック・ランザボビー・ダンカンボブ・オートン・ジュニアなどヒール勢のジョバーとなってキャリアを積む[5]1980年に入るとクラッシャー・ブラックウェルとの抗争で頭角を現し、ベビーフェイスの新鋭としてグレッグ・ガニアディノ・ブラボーティト・サンタナらのパートナーに起用され、当時ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニスのイースト・ウエスト・コネクションが保持していたAWA世界タッグ王座にも挑戦した[5]

1980年の下期よりNWAジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)に転戦し、スタン・レーンミスター・サイトーオレイ・アンダーソンマスクド・スーパースタージョー・ルダックなど同地区のトップ・ヒールと対戦。1981年ニューイヤーズ・デイにはアトランタオムニ・コロシアムにてレス・ソントンNWA世界ジュニアヘビー級王座に挑戦[6]、1月16日と2月8日にはケビン・サリバンボビー・イートンからナショナルTV王座を奪取した[7]

ジョージアで活躍中の1981年4月、国際プロレスの『ビッグ・チャレンジ・シリーズ』に初来日[8]。同時来日したポール・エラリングと共に「まだ見ぬ強豪」の1人として注目され、開幕戦ではアメリカに再修行に出ていた阿修羅・原の凱旋帰国第1戦の対戦相手を務め、最終戦の5月16日にはラッシャー木村IWA世界ヘビー級王座に挑戦した(いずれも後楽園ホール大会)[8]。なお、エラリングとオルソノスキーは1980年の初頭にAWAでタッグチームを組んでいたが[4]、来日時はエラリングがヒールのポジションだったため、両者が組んでIWA世界タッグ王座に挑戦することはなかった[8]

帰国後もジョージアでは、5月29日にモンゴリアン・ストンパーを下してナショナル・ヘビー級王座を獲得[9]。6月10日にはテッド・デビアスと組んでマイケル・ヘイズテリー・ゴディファビュラス・フリーバーズを破り、ナショナル・タッグ王座にも戴冠している[10]。同年9月21日にはWWFマディソン・スクエア・ガーデン定期戦にも出場しており、シングルマッチでロン・ショーから勝利を収めたほか、ペドロ・モラレスミル・マスカラスリック・マーテルキラー・カーンアンジェロ・モスカカート・ヘニングらと共にバトルロイヤルにも参加した[11]

1982年より古巣のAWAに戻り、テキサス州サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングやテネシー州メンフィスCWAなど、AWAの提携団体にも参戦。サンアントニオでは1983年のニューイヤーズ・デイに行われたサウスウエスト・ヘビー級王座の新王者決定トーナメントに出場したが、1回戦でアドリアン・アドニスに敗退した[12]

1984年1月、全日本プロレスの『新春ジャイアント・シリーズ』に再来日し、1月10日に室蘭にてジャンボ鶴田インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦[1]。前年にブルーザー・ブロディを破って新王者となった鶴田の、2度目の防衛戦の相手を務めた(全日本プロレスの興行には1981年の国際プロレスへの初来日時にも顔を見せており、試合後のテリー・ファンクをリング上で介抱する姿がテレビでも放送された)。

以降もAWAを活動の拠点に、当時AWAを席巻していたロード・ウォリアーズや、後にAWA世界ヘビー級王者となるラリー・ズビスコらと対戦。ガニアがNWAのジム・クロケット・ジュニアらと共同で立ち上げたWWFの対抗勢力 "Pro Wrestling USA" の興行にも参加し、1985年4月21日にセントポールで開催されたビッグイベント "StarCage 1985" にはトム・ジンクとのコンビで出場した[13]

膝の故障もあって1980年代後半にセミリタイアするも、AWAには最末期まで単発参戦し、1990年にはスーパー・ニンジャ(Super Ninja)なる黒頭巾を被った忍者ギミック覆面レスラーにも変身[4]ケン・パテラなどと対戦した。なお、スーパー・ニンジャは1986年にAWAで海外再修行を行っていた高野俊二が扮したキャラクターがオリジナルである[14]

AWA崩壊に伴い自身もリングを離れ、引退後はミネアポリスにて金融商品投資アドバイザーとなって活動している[4]。なお、近年も "Steve O" と名乗る選手がナッシュビルのインディー団体NWAメインイベント・レスリングなどに出場しているが、オルソノスキーとは別人である[5]

得意技

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獲得タイトル

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アメリカン・レスリング・アソシエーション
  • AWAルーキー・オブ・ザ・イヤー:1978年度[2]
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング

脚注

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  1. ^ a b c 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P80 (2002年、日本スポーツ出版社
  2. ^ a b DVD-BOX『国際プロレスクロニクル 上巻』DISC.3(2010年、クエスト)
  3. ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P270(1996年、日本スポーツ出版社
  4. ^ a b c d Steve O. fondly remembers his former life as a wrestler”. Slam Wrestling (2011年7月20日). 2011年12月7日閲覧。
  5. ^ a b c Wrestlers Database: Steve O”. Cagematch.net. 2011年12月7日閲覧。
  6. ^ The GCW matches fought by Steve O in 1981”. Wrestlingdata.com. 2022年2月18日閲覧。
  7. ^ a b NWA National Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月7日閲覧。
  8. ^ a b c IWE 1981 Big Challenge Series”. Puroresu.com. 2020年7月3日閲覧。
  9. ^ a b NWA National Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月7日閲覧。
  10. ^ a b NWA National Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月7日閲覧。
  11. ^ WWF on MSG Network”. Cagematch.net. 2011年12月7日閲覧。
  12. ^ SWCW Southwest Heavyweight Title Tournament”. Cagematch.net. 2011年12月7日閲覧。
  13. ^ AWA StarCage 1985”. Cagematch.net. 2011年12月7日閲覧。
  14. ^ Wrestlers Database: Shunji Takano”. Cagematch.net. 2011年12月7日閲覧。

外部リンク

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