コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ステファーノ・ボルゴノーヴォ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ステファーノ・ボルゴノーヴォ
名前
ラテン文字 Stefano Borgonovo
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1964-03-17) 1964年3月17日
出身地 ジュッサーノ
没年月日 (2013-06-27) 2013年6月27日(49歳没)
選手情報
ポジション FW
ユース
コモ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981–1986 コモ 63 (13)
1984–1985 → サンベネデッテーゼ (レンタル) 33 (13)
1986–1990 ACミラン 13 (2)
1986–1988 コモ (レンタル 33 (3)
1988–1989 ACFフィオレンティーナ (レンタル) 30 (14)
1990–1992 ACFフィオレンティーナ 37 (4)
1992–1993 ペスカーラ 35 (11)
1993–1996 ウディネーゼ 14 (2)
1994–1995 ブレシア (レンタル) 14 (0)
通算 272 (62)
代表歴
1985–1986 イタリア U-21代表 3 (1)
1989 イタリア代表 3 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ステファーノ・ボルゴノーヴォ(Stefano Borgonovo, 1964年3月13日 - 2013年6月27日)は、イタリアジュッサーノ出身の元サッカー選手で元イタリア代表。現役時のポジションはFW

経歴

[編集]

コモのユースチーム出身で、1981年からトップチームでのキャリアをスタートさせると、1985-86シーズンにリーグ戦で10ゴールを挙げて、翌シーズンにACミランが獲得するが、そのままコモに貸し出されるという形、コモでのプレーを続けた。

1988-89シーズン、ACFフィオレンティーナでリーグ戦14得点を挙げでブレークすると[1]、1989年2月、デンマークとの親善試合でイタリア代表デビューを果たした[1]。1989-90シーズンにACミランに正式に加入、リーグ開幕戦のチェゼーナ戦で先発して移籍後初得点を挙げたが、マルコ・ファンバステンの控え選手としてのプレーを強いられた[1]。それでもチャンピオンズカップ準決勝のFCバイエルン・ミュンヘン戦の第1戦、途中出場からファールを受けてPKを奪うと、これをファンバステンが決めて決勝点となった。第2戦でも途中出場から1得点を挙げ、チームを決勝に導いた[2]。決勝のベンフィカ戦では起用されなかったが、チームは優勝を果たした[3]

1992-93シーズンにはペスカーラでリーグ戦9ゴールを挙げたが、チームはセリエB降格した。1995-96シーズン、ウディネーゼでのプレーを最後に引退した。

引退後はALSを患い、闘病を続けていたが、自らの財団を創設し、2008年にアルテミオ・フランキで開催されたACFフィオレンティーナOB対ACミランOBのチャリティーマッチ(ロベルト・バッジョパオロ・マルディーニロベルト・ドナドーニらが出場)などを主催し、ALSに関する認知を広め、患者を支援する活動をしていたが、2013年に死去した[4][5]

タイトル

[編集]
ACミラン
個人
  • フィオレンティーナ殿堂
  • Premio Nazionale Carriera Esemplare "Gaetano Scirea" : 2013

脚注

[編集]
  1. ^ a b c La storia di Stefano Borgonovo”. NOTIZIE (2013年1月29日). 2023年7月5日閲覧。
  2. ^ Stefano Borgonovo”. Stefano Borgonovo FOUNDATION. 2023年7月5日閲覧。
  3. ^ Stefano Borgonovo 1989-90”. TRANSFERMARKT. 2023年7月5日閲覧。
  4. ^ 氷水で再注目…ALSで1年前に逝去した元伊代表、広がっていた支援の輪”. SOCCER KING (2014年8月31日). 2023年7月5日閲覧。
  5. ^ Soccer-Former Milan forward Borgonovo dies at 49”. REUTERS. 2023年7月5日閲覧。

外部リンク

[編集]