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ストモ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ストモ
Sutomo
生年月日 1920年9月3日
出生地 オランダ領東インドの旗 オランダ領東インド 東ジャワ州 スラバヤ
没年月日 (1981-10-07) 1981年10月7日(61歳没)
死没地 サウジアラビアの旗 サウジアラビア メッカ アラファト山
称号 インドネシア国家英雄
配偶者 スリスティナ

インドネシアの旗 第10代人材育成大臣
在任期間 1964年8月27日 - 1966年3月26日
大統領 スカルノ
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ストモSutomo1920年10月3日 - 1981年10月7日[1])は、インドネシア政治家軍人インドネシア独立戦争の指導者の一人で、スラバヤの戦い英語版インドネシア国軍指揮官。ブン・トモBung Tomo)の通称でも知られている。

生涯

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青年期

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1920年にスラバヤで暮らす中産家庭カルタワン・チトウィジョヨの息子として生まれる。父は公務員として政府の税務署で働いており、ジャワ戦争の英雄ディポヌゴロの末裔を自称していた。母は歌手をしており、それ以前はサレカット・イスラムのメンバーだった。太平洋戦争が勃発してオランダ領東インド日本軍に占領されるまでは、オランダ式の教育を受けていた。また、インドネシア・スカウト運動英語版にも参加し、17歳でスカウトの次席ランクに選ばれた。このランクは日本軍の占領以前はストモを含めて3人のみにしか与えられなかった。ストモはスカウト運動を通し、民族主義意識を形成していった。

占領期間中は同盟通信社スラバヤ支社に勤務し、青年向けに統一と闘争を呼びかける「ラジオ・ペンバロンタカン」を設立して知名度を上げた。また、複数の政治グループにも参加していたため、1944年に日本軍が後援する新人民運動のメンバーに選ばれた際には一目置かれる存在となっていた。

インドネシア独立戦争

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インドネシア独立戦争が勃発すると、ストモはスラバヤでイギリス軍との戦闘の指揮を執った。戦闘自体はイギリス軍の勝利に終わったが、戦闘はインドネシア独立を国際社会に訴える契機となった。戦争中、ストモはラジオ放送を通じて数千人のインドネシア人に独立支持を訴えると同時にヨーロッパ人との混血人種の迫害を扇動し、民衆による数百人規模の虐殺行為を指揮・監督した[2][3]

イギリス軍兵士たちよ!インドネシアの若者である雄牛たちが赤と白のインドネシア国旗を作れる赤い血を持つ限り、我々は決して降伏しない。友、兵士、特にインドネシアの若者は戦い続ける。我々が愛するインドネシアの大地から植民地主義者を追い出すために……我々は長きに渡り搾取され、踏みにじられ、苦しめられてきた。今こそ独立を勝ち取る時だ。自由か死か、アッラーフ・アクバル!……アッラーフ・アクバル!……アッラーフ・アクバル!……自由を! — 1945年11月9日、ブン・トモ(ストモ)[4]

独立後

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独立戦争の終結後、ストモとインドネシア大統領スカルノの関係は急激に悪化し、1950年代は冷遇されていた。関係悪化の原因は、ストモがスカルノの個人的な問題について尋ねたためと言われている[5]。1947年6月9日には東ジャワ州マランで、スリスティナと結婚し、5人の子供をもうけている[4]ブルハヌディン・ハラハップインドネシア語版内閣では暫定社会大臣を務めた。

1965年に9月30日事件が発生すると、ストモは左派寄りのスカルノを排除するためスハルトを支持したが、やがて彼の独裁体制(新秩序英語版)に反発するようになった[1]。1978年4月11日、スハルト政権の腐敗と権力濫用を批判したため逮捕される。1年後に釈放され、その後もスハルト政権への批判を続けたが、政治面で活躍する機会は与えられなかった。

1981年にハッジとなるため巡礼に訪れていたサウジアラビアメッカで死去した[1]。遺体は家族や友人によりインドネシアに移送された。ストモの独立戦争での功績を考慮すればカリバタ英雄墓地に埋葬されるのが妥当だったが、彼は生前から「私は国家の危機の際に、国家を守る勇気を持てなかった」として英雄墓地への埋葬を拒否していたため、スラバヤのヌガエルにある公共墓地に埋葬されている。

顕彰

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2007年11月9日にゴルカルとインドネシア青年運動から、ストモにインドネシア国家英雄の称号を付与する提案が出され[6]、2008年11月10日の英雄の日インドネシア語版に合わせて国家英雄の称号が授与された[7]

出典

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  1. ^ a b c Frederick 1982.
  2. ^ Who is responsible for ‘Bersiap’? The Jakarta Post
  3. ^ Meijer, Hans. 'In Indie geworteld, de Geschiedenis van Indische Nederlanders, de twintigste eeuw.' (Publisher Bert Bakker, Amsterdam, 2004) P.245 ISBN 90-351-2617-3. Note: Citing Dutch newspaper 'De Haagsche Post', article dated 4 December 1954.アーカイブされたコピー”. 2011年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年8月31日閲覧。
  4. ^ a b Sulistina Soetomo 1995.
  5. ^ Wahyudi, M Zaid (10 November 2007). Kompas. pp. 1 & 15
  6. ^ http://news.okezone.com/index.php/ReadStory/2007/11/09/1/59809/pemerintah-didesak-beri-gelar-pahlawan-pada-bung-tomo
  7. ^ http://www.menkokesra.go.id/content/view/9676/39/

参考文献

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  • Frederick, William H. (April 1982). "In Memoriam: Sutomo". Indonesia. Cornell University Southeast Asia Program. 33: 127–128.
  • Soetomo, Sulistina (1995). Bung Tomo, Suamiku [Bung Tomo, My Husband] (Indonesian). Pustaka Sinar Harapan. ISBN 978-979-416-313-9