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ズオン・クアン・ハム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ズオン・クアン・ハム
人物情報
生誕 1898年7月14日
フンイエン省
死没 1946年
ハノイ
学問
研究分野 文学史
主要な作品 『ベトナム文学史要』
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ズオン・クアン・ハムDương Quảng Hàm / 楊廣涵1898年-1946年)はベトナムの文学研究者、教育者。字はハイルオンHải Lượng / 海量)。

労作『ベトナム文学史要』(Việt Nam văn học sử yếu)はベトナムで最初のクオック・グーで書かれた標準的文学史とみなされている[1]

生涯と事績

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ズオン・クアン・ハムは1898年7月14日に、フンイエン省ヴァンザン県メーソー社のフーティ村の儒教知識人の家に生まれた。父方の祖父ズオン・ズイ・タイン(Dương Duy Thanh / 楊維清、1804-1861)は河内督学を勤めた。父のズオン・チョン・フォー(Dương Trọng Phổ / 楊仲普)、長兄でハノイにおける改革派学校の嚆矢であるトンキン義塾創設者の一人ズオン・バー・チャックDương Bá Trạc)、弟のズオン・トゥ・クアン(Dương Tụ Quán)などいずれも当時名の知れた名士であった。

幼いときから漢字を学び、ハノイに出てからはクオック・グーを学んだ。1920年、インドシナ師範専門学校(: l'École supérieure de pédagogie de l'Indochine)を首席で卒業した。1920-46年、ハノイのブオイ高校(植民地政庁の高校で、チュー・ヴァン・アン高校の前身)の教員を務めた。1945年の8月革命後、中等教育監察官となり、次いでブオイ高校の校長となった。

20年あまりの間、学校での教育のかたわら、越仏語での初等・中等教育用文学・歴史学の教科書執筆などを精力的に行った。『ベトナム文学史要』(1941年)と『ベトナム詩文合選』(Việt Nam thi văn hợp tuyển、1942年)の2冊はとりわけその水準の高さを評価されている。

『ベトナム文学史要』は、ベトナム共和国教育部が第8学年(今の10年生)の教科書として長年使用してきた。

このほか、以下のような著作がある:

  • Lectures littéraires sur L'Indochine (Pujarnicleと共編)
  • Quốc văn trích diễm (1925)
  • Tập bài thi bằng sơ học yếu lược (1927, ズオン・トゥ・クアンと共編),
  • Những bài lịch sử Việt Nam (1927)
  • Văn học Việt Nam (1939)
  • Việt văn giáo khoa thư (1940)
  • Lý Văn Phức - tiểu sử và văn chương (1945年頃成書)

このほか、『南風雑誌』『ヒュータイン』『チータン』といった雑誌・新聞、さらにはフランス人による新聞・雑誌でベトナム語フランス語の両方で多くの文章を発表している[2]

1946年12月(日時は不明)、全国抗戦の初期のハノイにて死去した。48歳没。

ベトナム文学史要

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本書はベトナム文学の教科書である。編纂概要[3]、略号一覧、結論、表、目録などが付されるほか、本文は48章[4]で構成される。庶民文学、中国の影響、各時代の学術制度、科挙・試験、フランスの影響、書記言語の問題など多くの価値ある部分を含んでいる。

著者はベトナム文学を概括して紹介するために多くの労力を払った。巻末には詳細で行き届いた著者・作品リスト、著者・作品索引がある。

チャン・ヒュー・ターは本書について

研究方法については完全に科学的とまでは言えないが、問題を設定して筋の通った妥当な解決を示している。収集した資料は豊富かつ正確である。本書はベトナム民族の文化の発見と保存にとって積極的役割を果たし……[5]

と語っている。

ヒュー・ゴックは

本書の構造は極めてロジカルではっきりしている。資料の扱いは極めて科学的で、行論もしっかりしており、論理も強固である。文言は(前代の儒者世代の駢文・対句を用いた長い文章と大きく異なって)上品、明晰、簡潔であり、(それは)ズオン・クアン・ハムが現代的な文学史の方法論を会得した儒士であることを証明している…

とりわけ、彼は(分類や韻律、特に言語・詩文・チュノム文といった)我々の特色にとても注意を払った。(莫黎時代以降の)各時代において、彼はしばしば漢文とチュノム文の両方について述べている。近現代文学を扱った章では非常に開けた精神を体現している。

2点だけ欠点がある:1/ 著者は数人のフランスの哲学者・作家の具体的影響について、中国の影響について行ったほどには、充分に分析していない。2/著者は魯迅ゴーリキーといった先進的作家に言及せず、反植民地文学や革命文学・共産主義文学についても全く触れていない。これは当然ながら植民地政庁の検閲制度の下で執筆されたからなのだが……[6]

と評価している。

顕彰

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後世の人間はズオン・クアン・ハムの著作について以下のように評価している:

*四半世紀のなかで数千人の学生を育成した傑出した教師である。(彼の才能と人徳を慕って教師の職を選んだものもいる)
  • ベトナムにおける文学史比較文学の基礎を据えた文学研究者であり、国学のカリキュラムにおいて現代的教育を開始した人物である。
  • 人格については、彼は「一人の愛国儒士であり、一人の所作言行から師弟関係に至るまで模範となる自分つであり、全てにおいて儒教の礼の観念に従っていた」……[6]

模範的教師、文学教科書の著者、文学史研究の碩学としての功績を記念して、1993年7月14日、教育・訓練省、国家人文社会科学センター、教育科学院、文学院が生誕95周年記念学術会議を開催した。

現在、フンイエン市、ホーチミン市、ハノイ市のいずれにもズオン・クアン・ハムの名を冠した道路がある[7]

4女のズオン・ティ・トア(Dương Thị Thoa、独立運動の活動家としての偽名はレーティ Lê Thi)は1945年9月2日の独立式典で旗を掲揚した二人のうちの一人で(もう一人はダム・ティ・ロアン Đàm Thị Loan)、家族・ジェンダー研究所の創設者でもある[8]

注釈

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  1. ^ Trần Hữu Tá, Từ điển văn học, bộ mới, N.X.B Thế Giới, tr.360 và Từ điển bách khoa Việt Nam, tập I, Hà Nội, 1995, tr.690
  2. ^ タイン・ランThanh LãngはハムがViệt Hán văn biểuを編纂したとするが、いつ出版されたか記していない。また、次のように褒めている「それぞれの文章について、著者は次のような作業を行っている:1/一部分を引用して、細かいところから議論を展開する。ある一冊に言及したときは全ての話について分析する。2/ 難解な語彙の注釈。3/引用した文章の思想と文章についての設問」。これらは些末なことに見えても文章を理解するのに実に有益であり、今に至るもズオン・クアン・ハム以上の仕事ができたものは少ない。(Bảng lược đồ văn học Việt Nam, quyển hạ, NXB Trình Bày, Sài Gòn, không ghi năm xuất bản, tr.350)
  3. ^ 陽暦1941年6月編纂終了とある。
  4. ^ ベトナム共和国教育部学術資源センターTrung tâm học liệuが1968年に発行した第10版では、496ページもの長さになっている。
  5. ^ Trần Hữu Tá, 前掲書
  6. ^ a b Hữu Ngọc, Lãng du trong văn hóa Việt Nam, NXB Thanh Niên, 2007, tr.878
  7. ^ http://hoisuhoc.vn/thongtinsuhoc.asp?id=190
  8. ^ Cô gái kéo cờ lễ độc lập

故郷のフンイエン省ヴァンザン県には、彼の名をとった高校が2001年に作られた。

外部リンク

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