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セウニデイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

セウニデイモンゴル語: Seünidei、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、ケレイト部トゥベエン氏の出身。『元史』における漢字表記は肖乃台(xiàonǎitái)、笑乃帯(xiàonǎidài)など。

概要

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セウニデイがどのような経緯を経てモンゴル帝国に仕えるようになったかは不明であるが、忠義・武勇を以てチンギス・カンに取り立てられるようになったという。1206年にモンゴル帝国が建国されると、チンギス・カンは麾下の遊牧民を全てミンガン(千人隊)に再編成し、右翼軍をアルラト部のボオルチュに、左翼軍をジャライル部のムカリに統轄させていた。ある時、チンギス・カンはセウニデイに「汝はボオルチュとムカリ、どちらの麾下に属して我が為に力を尽くしたいと願うか?」と尋ねたところ、セウニデイは「願わくばムカリの左翼軍に属さん」と答えたため、セウニデイはムカリ軍に配属されたという[1]

第一次金朝遠征においてチンギス・カンは金朝領の各地で金軍を破り、掠奪をはたらき、モンゴル帝国に有利な形で講和を結んで一度引き上げたが、金朝方面に駐屯するモンゴル軍の指揮権は「四駿」の一人のムカリに委ねられた。ムカリの配下にはコンギラト部イキレス部マングト部ウルウト部ら帝国左翼の有力部族と漢人契丹人女真人ら現地徴発兵が集められ、この軍勢の「先鋒/前鋒」として抜擢されたのがココ・ブカ、ボロト、セウニデイ、ブルガイ・バアトル、アルチャルら「五部将」であった[2][3][4][5]

1225年(乙酉/正大2年)、一度モンゴルに投降した金朝の武将の武仙史天倪を殺害して真定で叛乱を起こすという事件が起こり、武仙討伐のため援軍を要請した史天倪の弟の史天沢の下に派遣されたのがセウニデイであった。史天沢と合流したセウニデイは武仙の派遣した武将の葛鉄槍を撃退し、武仙の支配下にあった中山府を攻略したため、武仙は一度真定を放棄して逃れた。しかし、武仙は真定の民と密かに連絡を取って奇襲をかけ、内応者の手によって南門が開かれた真定は再び武仙軍の支配下に落ち、セウニデイと史天沢は一旦逃れたが、その後再び軍勢を結集してもう真定を再攻略した[6][7]。真定の再攻略後、モンゴル兵は真定住民の裏切りに怒り皆殺しにしようとしたが、セウニデイは「ここで住民を皆殺しにすれば、他の城市の攻略を困難にしてしまうだろう」と述べてこれを止めたという[8]

真定の戦いの後、セウニデイは逃亡中の武仙の弟を紫荊関で捕縛して斬首とし、その妻子を捕虜とした。その後、太原・大名を転戦したセウニデイは東平の攻略に加わり、安撫の王立剛率いる軍勢を破り東平の攻略に大きく貢献した[9]

チンギス・カンの死後、オゴデイが第2代皇帝に即位するとセウニデイは引き続き金朝の攻略に起用された。1232年(壬辰)、黄河を渡ったセウニデイは完顔慶山奴率いる軍勢を破り、他の将軍とともに金の皇帝が籠もる蔡州を包囲した(蔡州の戦い)。セウニデイと史天沢率いる部隊は蔡州の北面を攻撃し、金朝の滅亡に大きく貢献した。これらの功績によりセウニデイは東平路に300戸を与えられ、南宋との戦いに備えていたが、病により東平にて亡くなった。その遺体はモンゴリアに運ばれ、そこで埋葬されたという[10]

セウニデイには7人の息子がいたが、特に有名なのは抹兀答児[11]と兀魯台[12][13]の2名であった。

タンマチ「五部将」

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※ブルガイ・バアトルは後にケレイテイと交替する。

脚注

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  1. ^ 『元史』巻120列伝7肖乃台伝,「肖乃台、禿伯怯烈氏、以忠勇侍太祖。時木華黎・博児朮既立為左右万戸、帝従容謂肖乃台曰『汝願属誰麾下為我宣力』。対曰『願属木華黎』。即日命佩金符、領蒙古軍、従太師国王為先鋒。兵至河北、史天澤之父率老幼数千詣軍門降。国王承制、授天澤兄天倪河北西路都元帥、領真定」
  2. ^ なお、この時既に「五部将」が「タンマチ」を率いていたとする史料も存在するが、『モンゴル秘史』ではタンマチは第2代皇帝オゴデイの治世に創始されたと明記されること、その他の史料では「タンマチ軍」ではなく単に「先鋒軍」「蒙古軍」などと記されることが多いことなどから、この時ココ・ブカらがタンマチを率いていたとするのは誤りであると考えられる。但し、この時「五部将」が率いていた軍勢が後のタンマチ軍の原型となり、後述するようにオゴデイの治世に「五部将」が正式にタンマチ軍の指揮官とされたのは事実である(松田1996,162-163頁)。
  3. ^ 『元史』巻98兵志1,「三年三月、詔『真定・彰徳・邢州・洺磁・東平・大名・平陽・太原・衛輝・懐孟等路各処、有旧属按札児・孛羅・笑乃帯・闊闊不花・不里海抜都児等官所管探馬赤軍人、乙卯歳籍為民戸、亦有僉充軍者。若壬寅・甲寅両次僉定軍、已入籍冊者、令随各万戸依旧出征』」
  4. ^ 『元史』巻99兵志2 右都威衛の条,「国初、木華黎奉太祖命、収札剌児・兀魯・忙兀・納海四投下、以按札児・孛羅・笑乃帯・不里海抜都児・闊闊不花五人領探馬赤軍。既平金、随処鎮守」
  5. ^ 『元史』巻122列伝9按札児伝,「按札児、拓跋氏、嘗扈従太祖南征。歳丙子、復従定諸部有功、命領蒙古軍為前鋒、時木華黎曁博爾朮為左右万戸長、各以其属為翊衛。太祖命木華黎為太師国王都行省承制行事、兵臨燕・遼・営・青・斉・魯・趙・韓・魏、皆下」
  6. ^ 『金史』巻117列伝56武仙伝,「武仙、威州人……正大二年、仙賊殺史天倪、復以真定来降。天元大将笑乃帯討仙、仙走。閲月、乗夜復入真定、笑乃帯復撃之、仙乃奔汴京」
  7. ^ 『元史』巻120列伝7肖乃台伝,「乙酉、天澤送母還白霫、副帥武仙殺天倪、以真定叛。経歴王縉追天澤至燕、請摂主帥。遣監軍李伯祐詣国王軍前言状、且請援兵。国王命肖乃台率精甲三千、与天澤合兵進囲中山。仙遣其将葛鉄槍来援、肖乃台撤囲迎之、遇諸新楽、奮撃敗之。会日暮、阻水為営。肖乃台料其気索、必宵遁、乗勝復進撃、大敗之、擒鉄槍。中山守将亦宵遁、遂克中山、取無極、抜趙州。仙棄真定、奔西山抱犢寨。肖乃台与天澤入城、撫定其民。未幾、仙潜結水軍為内応、夜開南門納仙、復拠其城。肖乃台倉卒以歩兵七十逾城、奔藁城。遅明、部曲稍来集、兵威復振、襲取真定、仙棄城遁」
  8. ^ 『元史』巻120列伝7肖乃台伝,「将士怒民之反覆、駆万人出、将屠之。肖乃台曰『金氏慕国威信、傒我来蘇、此民為賊所駆脅、有何罪焉。若不勝一朝之忿、非惟自屈其力、且堅他城不降之心』。乃皆釈之」
  9. ^ 『元史』巻120列伝7肖乃台伝,「初、仙之叛也、其弟質国王軍中、聞之遁去。肖乃台遣弟撒寒追及於紫荊関、斬之、俘其妻子而還。乃整兵前進、下太原、略太行、抜長勝寨、斬仙守将盧治中、囲仙於双門寨、仙遁去。引兵出太行山東、遇宋将彭義斌、与戦、敗之、追至火炎山、破其営、擒義斌斬之。至大名、守将蘇元帥以城降、遂引兵臨東平、敗安撫王立剛於陽穀、囲東平。立剛走漣水、金守将棄城遁、他将邀撃敗之、遂定東平。又与蒙古不花徇河北・懐・孟・衛、従国王定益都」
  10. ^ 『元史』巻120列伝7肖乃台伝,「壬辰、度河、略汴京、徇睢州、遇金将完顔慶山奴、与戦、敗之、追斬慶山奴。金主入蔡、諸軍囲之。肖乃台・史天澤攻城北面、汝水阻其前、結筏潜渡、血戦連日。金亡、朝廷以肖乃台功多、命並将史氏三万戸軍以図南征、賜東平戸三百、俾食其賦、命厳実為治第宅、分撥牧馬草地、日膳供二羊及衣糧等。以老病卒於東平、帰葬漠北。子七人、抹兀答児・兀魯台知名」
  11. ^ 『元史』巻120列伝7肖乃台伝,「抹兀答児、歳戊戌、従国王忽林赤行省於襄陽、略地両淮。己未、従渡江、攻鄂州、以功賞銀五十両。中統元年、追阿蘭答児・渾都海、預有戦功。二年、従北征、敗阿里不哥於失木禿之地。三年、又与李璮戦、有功。国王忽林赤上其功、奉旨賞銀五十両、授提挙本投下諸色匠戸達魯花赤。卒。子四人、火你赤、江南行台御史大夫」
  12. ^ 『元史』巻120列伝7肖乃台伝,「兀魯台、中統三年、従石高山奉旨拘集探馬赤軍、授本軍千戸。至元八年、授武略将軍、佩銀符。十年、攻樊城有功、換金符、武徳将軍。十一年、渡江有功、賞銀三百両、改武節将軍。十二年四月、軍至建安、卒於軍」
  13. ^ 『元史』巻120列伝7肖乃台伝,「子脱落合察児襲職、従参政阿剌罕攻独松関有功、升宣武将軍。尋命管領侍衛軍。枢密院録其渡江以来累次戦功、十八年、升懐遠大将軍。二十年、江西行省命討武寧叛賊董琦、平之、改授虎符・江州万戸府達魯花赤。二十四年、移鎮潮州、値賊張文恵・羅半天等嘯聚江西、行枢密院檄討之、領兵破賊寨、斬賊首羅大老・李尊長等、獲其偽銀印三。卒於軍」

参考文献

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  • 萩原淳平「木華黎王国下の探馬赤軍について」『東洋史研究』36号、1977年
  • 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題 」『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻120列伝7
  • 新元史』巻123列伝27
  • 蒙兀児史記』巻57列伝39