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セクストゥス・クィンクティリウス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

セクストゥス・クィンクティリウス
Sex. Quinctilius Sex. f. P. n. (Varus)
出生 不明
死没 紀元前453年
出身階級 パトリキ
氏族 クィンクティリウス氏族
官職 執政官(紀元前453年)
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セクストゥス・クィンクティリウスラテン語: Sextus Quinctilius、生年不詳 - 紀元前453年)は共和政ローマ初期の政治家・軍人。紀元前453年執政官(コンスル)を務めた。

出自

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パトリキ (貴族)のクィンクティリウス氏族の出身で、父はセクストゥス、祖父はプブリウスであるという。354年の年表では前453年の執政官をウァロとトリゲミノとしており[1]、クィンクティリウス氏族は紀元前403年執政武官以降ウァルス家から幾人も政務官を出しているため、彼のコグノーメンもウァルスであった可能性はある。

経歴

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紀元前453年に執政官に就任したが、この年は前年パトリキとプレブス (平民)の間で話し合いが行われ、アテナイに新法研究のための使節団が派遣されており、護民官も鳴りを潜めていた。しかしローマで飢饉と疫病が発生し、アウグル (鳥卜官)等の神官や四人の護民官と共にクィンクティリウスも死亡した[2]

ディオニュシオスによると、あまりにも死者が多く、埋葬も火葬も間に合わず、下水道や川に遺体を投げ込んだために水道が汚染され、更に疫病が広がったという。ローマでは伝統に則らない新しい礼拝方法が行われたが効果はなく、クィンクティリウスの補充執政官に選出されたフリウス・メドゥッリヌスもまた病死したとしている。しかしながら、カピトリヌスのファスティに彼の名は見当たらない。

アエクイ族ウォルスキ族サビニ人に合力を求めローマを攻めようとしたものの、それらの国にも疫病が蔓延したため、この年戦争は起こらなかったという[3]

脚注

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参考文献

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関連項目

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公職
先代
スプリウス・タルペイウス・モンタヌス・カピトリヌス
アウルス・アテルニウス・ウァルス・フォンティナリス
ローマ執政官(コンスル)
紀元前453年
同僚
プブリウス・クリアティウス・フィストゥス・トリゲミヌス
次代
ティトゥス・メネニウス・ラナトゥス
プブリウス・セスティウス・カピトリヌス・ウァティカヌス