セバスティアーノ・コンカ
セバスティアーノ・コンカ Sebastiano Conca | |
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19世紀の書籍の肖像画 | |
生誕 |
1680年1月8日 ガエータ |
死没 |
1764年9月1日 (84歳没) ナポリ |
イル・キャバリエーレ(il Cavaliere)の称号でも呼ばれる、セバスティアーノ・コンカ(Sebastiano Conca、1680年1月8日 - 1764年9月1日[1])は、イタリアの画家である。
略歴
[編集]イタリアのラツィオの南部ガエータで生まれた。ナポリでフランチェスコ・ソリメーナ(1657-1747)の工房で学び、1706年に助手として働く弟のジョヴァンニ・コンカ(Giovanni Conca: 1690-1771)とローマに移った。
カルロ・マラッタ(1625-1713)とローマ、トラステヴェレのサンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ教会の装飾の仕事をし、壁画や祭壇画を描いた。1718年にはジェノヴァのロメッリーニ・ドーリア宮殿で仕事をした。
1719年に、アカデミア・ディ・サン・ルカの会員となり、2度会長職に選ばれた[2] 。多くの芸術家のパトロンであったピエトロ・オットボーニ枢機卿(Pietro Ottoboni,)の支援を受けた。枢機卿のとりなしで、ローマ教皇クレメンス11世(在位1700-1721)から注文を受け、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂とサン・クレメンテ聖堂の壁画を描き、騎士(Cavaliere)の称号と宝飾品を与えられた。
1721年から1725年の間は、トリノのサヴォイア家に招かれ、さまざまな教会や宮殿の壁画や油絵を制作した。 スペイン王フェリペ5世らの各国の王族、有力者から注文を受けた。
1739年に、芸術家志望者のための道徳指針である『Ammonimenti』という書籍を出版した。
1751年にナポリに戻り、1784年にナポリで没した。
ローマで画塾を開き、影響を与えたとされる画家にはポンペオ・バトーニ(1708-1787)やピエトロ・パオロ・ヴァスタ(Pietro Paolo Vasta: 1697-1760)、フェデーレ・ティリト(Fedele Tirrito:1717-1801)、コッラード・ジアキント(1703-1766)、オリヴィオ・ソッツィ(Olivio Sòzzi:1696-1765)らがいるとされる。
作品
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ウラニアとエラトー
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エルサレムの寺院のアレキサンダー大王 (1736/1737)
プラド美術館 -
知識の寓意画
Palazzo Corsiniの装飾画
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十字架降架 (1746)
Pinacoteca Vaticana -
ゲッセマネの園のキリスト(1746)
Pinacoteca Vaticana -
聖母子と聖ヨハネ
脚注
[編集]- ^ “Girolamo Carattoni | The Tiburtine Sibyl, after Sebastiano Conca” (英語). The Metropolitan Museum of Art. 2023年4月12日閲覧。
- ^ Missirini, page 209.
参考文献
[編集]- Jane Turner (a cura di): The Dictionary of Art. 7. Auflage. Grove, New York 1996, ISBN 1-884446-00-0, S. 681–684.
- Sebastiano Conca (1680–1764). Ausstellungskatalog. Centro Storico Culturale „Gaeta“, Gaeta 1981.
- Friedrich Noack: Conca, Sebastiano. In: Ulrich Thieme (Hrsg.): Allgemeines Lexikon der Bildenden Künstler von der Antike bis zur Gegenwart. * Begründet von Ulrich Thieme und Felix Becker. Band 7: Cioffi–Cousyns. E. A. Seemann, Leipzig 1912, S. 287–288 .