ソナム・ロドゥ
ソナム・ロドゥ(bSod nams blo gros、1332年 - 1362年)は、チベット仏教サキャ派の仏教僧。大元ウルスにおける12代目の帝師を務めた。
『元史』をはじめとする漢文史料には一切記録がなく、チベット語史料にのみ存在が言及される。
概要
[編集]チベット語史料によると初代帝師パクパの甥のサンポペルには多数の息子がおり、第8代帝師クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポ/第9代帝師クンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポ/第11代帝師クンガ・ギェンツェン・パルサンポの弟の白蘭王クンガ・レクペー・ギェンツェン・パルサンポの息子がソナム・ロドゥであったという[1]。
モンゴル支配時代のチベットについて最も詳しい『フゥラン・テプテル』は1346年編纂のためにソナム・ロドゥに言及せず、1434年成立の『漢蔵史集』にやや詳しい記録が残る[2]。『漢蔵史集』によるとソナム・ロドゥはクンガ・レクペー・ギェンツェン・パルサンポと第5代帝師タクパ・オーセルの姪の間の息子で、父親が25歳の時、すなわち1332年(壬申)に生まれたという[2]。その後、30歳になった1361年にトガンテムル(Tho gan the mur=順帝トゴン・テムル)より帝師の称号をチベット在住のまま贈られた[2]。そして大元ウルス朝廷に招かれて皇帝の師となったが、帝師就任から1年足らずの1362年にMe tog ra baで死去したとされる[2]。
ソナム・ロドゥは『元史』をはじめとする漢文史料に一切言及がなく、誰から帝師の地位を継ぎ、次代の帝師が誰であったかは全く不明である[3]。なお、この頃チベット中央部は既にパクモドゥパ派のチャンチュプ・ギェルツェンによって制圧されてサキャ派は衰退しており、チベット史の文脈では「パクモドゥパ時代」と呼ばれる時代に入っていた。ソナム・ロドゥの死の2年後にはパクモドゥパ派の覇権を築いたチャンチュプ・ギェルツェンが亡くなり、その甥に当たるジャムヤン・シャーキャ・ギェンツェンが地位を継ぎ大元ウルスより「国師」の称号を授けられている[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
- 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
- 佐藤長『中世チベット史研究』同朋舎出版、1986年
- 中村淳「チベットとモンゴルの邂逅」『中央ユーラシアの統合:9-16世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 11〉、1997年
- 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
- 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
- 稲葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26、ISSN 0019-4344、NAID 130004028242。
- 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687。