ナムギェン・パルサンポ
ナムギェン・パルサンポ(rNam rgyal dpal bzang po、生没年不詳)は、チベット仏教サキャ派の仏教僧。「摂帝師(帝師の代行者)を称し、当時の著名なチベット仏教僧の中では始めて成立したばかりの明朝に使者を派遣したことで知られる。
概要
[編集]1368年(至正28年/洪武元年)に成立した明朝はモンゴル帝国のようにチベット高原を武力制圧できるほどの力がなく、1369年(洪武2年)にチベットの首長を招撫した時もすぐこれに応じる者はいなかった[1]。しかし断続的に何度も使者を派遣した結果まず1370年(洪武3年)に何鎖南普なる人物が投降し、1372年(洪武5年)には遂に「烏思蔵摂帝師」を称する喃加巴蔵卜(=ナムギェン・パルサンポ)が使者を派遣して来貢した[2][3]。
そして1373年(洪武6年)2月1日にナムギェン・パルサンポは自ら明朝朝廷を訪れ、大元ウルス時代に官職を与えられていた者60名に再び職名を授かることを乞うた[4]。これに対し、省台は「来朝した者には官職を授けるが、自ら来朝しない者には与えるべきではない」と反対したが、洪武帝は「遙か遠方から帰服した者には報いるべきである」としてナムギェン・パルサンポの要請通り60名全てに官職を授けた[4]。更に、洪武帝はナムギェン・パルサンポに下賜する印が美麗でないのを見ると再び命を下して獣紐塗金銀印を作成させ、綵段・表裏とともにナムギェン・パルサンポに下賜した[5][6]。洪武帝がこのようにナムギェン・パルサンポを手厚く遇したのは、最初に明朝に来朝した著名なチベット仏教僧であったために、特別の政治的配慮を加えたためとみられる[5]。帰国するナムギェン・パルサンポに対し、河州衛鎮撫の韓加里麻を同行させて未だ寄附していない土酋の招諭を命じたことは、ナムギェン・パルサンポに対する厚遇の見返りであった[5]。
1374年(洪武7年)には再び使者を派遣し[7]、同年末にはナムギェン・パルサンポらの要請によって朶甘思宣慰司が増設された[8]。この時、招討司6・万戸府4・千戸所17が設置されたとされ、『明実録』には全ての名称が挙げられているが、どの地名に相当するか不明なものが多い[9]。
チベット史研究者のTucciは「喃加巴蔵卜」をrnam mkha' dpal bzang poの音写と見て、スンパケンポの年表に見えるrnam mkha' dpalと同一人物とする[10]。しかし、佐藤長は当時のチベット音の漢字転写の規則から喃加巴蔵卜=rnam mkha' dpal bzang poとは考えにくく、実際にはrnam rgyal dpal bzang po(ナムギェン・パルサンポ)の転写と見るべきであると指摘する[11]。佐藤長はサキャ派の分派シャルゥの第8代チペンであるナムギェルペルサンと喃加巴蔵卜を同一人物と見る説を提起するが、在俗首長(dpon)たるチペンが帝師を兼ねるとは考えられないとも述べ、「喃加巴蔵卜に該当する人物を史上に特定することは遺憾ながら不可能である」と結論づける[11]。
脚注
[編集]- ^ 佐藤1986,119頁
- ^ 佐藤1986,119-120頁
- ^ 『明太祖実録』洪武五年十二月二十七日(庚子),「烏思蔵摂帝師喃加巴蔵卜等、遣使来貢方物。詔賜紅綺・禅衣及靴帽・銭物、有差」
- ^ a b 佐藤1986,120頁
- ^ a b c 佐藤1986,123頁
- ^ 『明太祖実録』洪武六年二月一日(癸酉朔),「詔置烏思蔵朶甘衛指揮使司、宣慰司二、元帥府一、招討司四、万戸府十三、千戸所四。以故元国公南哥思丹八亦監蔵等、為指揮同知・僉事・宣慰使・同知副使・元帥・招討・万戸等官、凡六十人。以摂帝師喃加巴蔵卜為熾盛仏法国師。先是、遣員外郎許允徳使吐番、令各族酋長挙故官至京授職。至是、喃加巴蔵卜以所挙故元国公南哥思丹八亦監蔵等来朝貢、乞授職名。省台臣言『来朝者、宜与官職。未来者宜勿与』。上曰……。初玉人造賜喃加巴蔵卜印既成以進。上観其玉未美亟、命工易之、其制獣紐塗金銀印池仍加。賜喃加巴蔵卜綵段・表裏二十匹。未幾、喃加巴蔵卜等辞、帰命河州衛鎮撫韓加里麻等持勅、同至西番、招諭未附土酋」
- ^ 『明太祖実録』洪武七年四月二日(丁酉),「熾盛仏法国師喃加巴蔵卜遣僧輦真蔵卜等来朝貢方物」
- ^ 『明太祖実録』洪武七年十二月一日(壬辰朔),「熾盛仏法国師喃加巴蔵卜及朶甘行都指揮同知鎖南兀即爾等、遣使来朝、奏挙土官賞竺監蔵等五十六人。詔増置朶甘思宣慰司、及招討等司。招討司六、曰朶甘思、曰朶甘籠答、曰朶甘丹、曰朶甘滄溏、曰朶甘川、曰磨児勘。万戸府四、曰沙児可、曰乃竹、曰羅思端、曰列思麻。千戸所十七、曰朶甘思、曰剌宗、曰孛里加、曰長河西、曰多八参孫、曰加巴、曰兆日、曰納竹、曰倫答、曰沙里可哈思的、曰孛里加思東、曰果由、曰参卜郎、曰剌錯牙、曰泄里壩、曰闊側魯孫、曰撒里土児干……」
- ^ 佐藤1986,164-165頁
- ^ 佐藤1986,123-124頁
- ^ a b 佐藤1986,124頁
参考文献
[編集]- 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
- 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
- 佐藤長『中世チベット史研究』同朋舎出版、1986年
- 中村淳「チベットとモンゴルの邂逅」『中央ユーラシアの統合:9-16世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 11〉、1997年
- 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
- 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
- 稲葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26、ISSN 0019-4344、NAID 130004028242。
- 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687。
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