ダニエル・ヴィエルジュ
ダニエル・ヴィエルジュ Daniel Vierge | |
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自画像(年代不明)
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生誕 |
Daniel Urrabieta Vierge 1851年3月5日 スペイン・マドリード |
死没 |
1904年5月10日 (53歳没) フランス共和国・ブローニュ=ビヤンクール |
国籍 | スペイン |
教育 | 王立サン・フェルナンド美術アカデミー |
著名な実績 | イラスト、絵画 |
代表作 |
『フランス史』 『ドン・キホーテ』 |
影響を受けた 芸術家 |
フェデリコ・デ・マドラーソ エドモン・モラン |
影響を与えた 芸術家 | ジョゼフ・クレメント・コル |
ダニエル・ヴィエルジュ (西:Daniel Vierge、1851年3月5日 - 1904年5月10日) はスペイン - フランスの画家、製図工、イラストレーター。マドリードで生まれ、パリで活躍した。
30歳のときに病で右半身不随となるが、左手でも多くの作品を残し[1]、『レ・ミゼラブル』、『ドン・キホーテ』などの小説の挿絵も描いた。
経歴
[編集]ダニエル・ヴィエルジュ(本名:Daniel Urrabieta Vierge)は、製図工の父親、ビセンテ・ウラビエタとフランス生まれの母親、フアナ・ヴィエルジュ・デ・ラ・ベガの間にマドリードで生まれた[2]。弟のサムエル・ウラビエタものちに画家となった。
彼は1864年から王立サン・フェルナンド美術アカデミーで学び、フェデリコ・デ・マドラーソに師事した。1869年頃に家族とともにパリへ移住し、普仏戦争が始まると、家族はスペインに戻った。
彼は1870年に雑誌『ル・モンド・イリュストレ』で働き始め、1870年9月17日号に初めて彼のイラストが掲載された[3]。 彼は自分の作品にセカンド・ネームのVIERGEと署名した。これはフランス人にとって覚えやすい名前であるだけでなく、ともに画家として活動していた父親と区別するためでもあった[4]。
彼は版画家のエドモン・モランの作品から影響を受け、1871年パリ・コミューンにおいてはギュスターヴ・フルーランス (fr) やロワール・リゴー (fr) などの革命指導者も描いた。
パリ・コミューンの後、版画家のアメデ・ドーデナルデと組んで、第三次カルリスタ戦争のイラストを数多く描いた。また、彼は自分の作品のみならず、父親やリュック=オリヴィエ・メルソンなどの各国に派遣されていたイラストレーターから送られたスケッチの版下も手がけた。
1871年から1878年にかけては、彼の最も著名とされるいくつかの作品が生み出された。『スペインのクリスマス』『トラファルガー広場での共和党集会』『アンダルシアでの列車への攻撃』『パレルモでのサンタ・ロサリアの饗宴』『エル・エスコリアル図書館の火』『シチリア島の盗賊』『コンスタンチノープルの夜のパーティー』『スペイン内戦のエピソード』『雄牛の戦い』『アトーチャ大聖堂でのアルフォンソ12世王とメルセデス王女の結婚式』などがそれである。
1879年には『ル・モンド・イリュストレ』を離れ、新しい雑誌『ラヴィ・モデルヌ 』(fr) の創刊に携わった。1880年に彼は画家のマルティン・リコ と共にガリシアとカスティーリャを旅し、同地の風景を描いた。
ところが、1882年2月14日に脳卒中を発症、右半身に片麻痺が起こり、会話や記憶にも影響を受けたが、妻のクララの献身的な看護を受けて部分的に恢復し、左手で描くことを学びながら仕事を再開した。
以後、本の挿絵でも活躍し、フランシスコ・デ・ケベードの小説『詐欺師ドン・パブロスの生涯』(1882年:es)に描いた、写真版画の技法を用いた挿絵は脚光を浴びた。
ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』(1882年版)[5]や、セルバンテスの『ドン・キホーテ』の挿絵も著名で、後者については1893年に画家のカルロス・ヴァスケス (en) とともにラ・マンチャを旅し、アルガマシージャ・デ・アルバ (es) やアルカサル・デ・サン・フアン (es) 、カンポ・デ・クリプターナで作成したスケッチをもとに、さまざまな版の挿絵を描いた。
しかし、ヴィエルジュの挿絵で最も重要な作品はジュール・ミシュレの『フランス史』とされる[5][6]。これは全26巻構成で、ヴィエルジュのドローイングが約一千点含まれている。
1889年9月29日、彼はパリ万国博覧会で初のメダルを獲得した。
1898年、ヴィエルジュの『ドン・キホーテ』はパリの「アール・ヌーボー・ギャラリー」に出品された。同年、ヴィエルジュは木版画を称揚する雑誌『イマージュ』(fr) に寄稿し、1900年のパリ万国博覧会ではグランプリを受賞した。
1904年4月2日、彼の母親がパリのグーテンベルク通りにあるアパルトマンで死去。約一か月後の5月10日、ヴィエルジュはブローニュ=ビヤンクールで死去し、モンパルナス墓地に埋葬された。
作品
[編集]脚注
[編集]- ^ Jaccaci 1893, pp. 201–202.
- ^ Villar Garrido & Villar Garrido 2006, p. 50.
- ^ Marthold 1906, p. 28.
- ^ Marthold 1906, p. 26.
- ^ a b Varios autores 1911, p. 57.
- ^ Jaccaci 1893, p. 189.
- ^ 「エル・ムセオ・ウニベルサル」掲載
- ^ ビセンテ、サムエルとの共作。
- ^ 1874年5月19日、オランダ総督 ウィレム3世の治世25周年レセプションで、スヘフェニンゲンの海岸に焚かれたかがり火。アムステルダム国立美術館蔵。
- ^ 右上より反時計回りに「船でエブロ川を渡り、カステホン (:es) に向かう」「アーロを通過する船」「パンプローナ州議事堂に到着」「ログローニョにおけるバルドメロ・エスパルテロとの会見」(キャプションは取材記者のディック・ド・ロンレイ :fr による)
- ^ 第三幕、インドラの楽園の場。フィルマン・ジロー (:fr)との共作。
- ^ ここではアルフォンソが式を挙げるアトーチャ大聖堂に到着した場面を描いている。
- ^ ナショナル・ギャラリー (ワシントン)蔵。
参考文献
[編集]- Jaccaci, Augusto Floriano, ed (1893). Vierge: The Father of Modern Illustration. The Century Magazine
- Villar Garrido, Ángel; Villar Garrido, Jesús, ed (1906). Daniel Urrabieta Viergé, un gran ilustrador del Quijote, casi olvidado. Añil: Cuadernos de Castilla - La Mancha. ISSN 1133-2263
- Hugh Chisholm, ed (1911). Enciclopedia Británica(11ª edición)
- Frank Clifford Rose, ed (2006). The Neurobiology of Painting: International Review of Neurobiology. Academic Press. ISBN 9780080463612