ダマージー・ラーオ・ガーイクワード
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ダマージー・ラーオ・ガーイクワード Damaji Rao Gaekwad | |
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ガーイクワード家当主 | |
ダマージー・ラーオ・ガーイクワード | |
在位 | 1732年 - 1768年 |
別号 |
サルダール マハーラージャ |
出生 |
不詳 |
死去 |
1768年8月18日 パータン |
子女 |
サヤージー・ラーオ・ガーイクワード ファテー・シング・ラーオ・ガーイクワード ゴーヴィンド・ラーオ・ガーイクワード マナージー・ラーオ・ガーイクワード |
家名 | ガーイクワード家 |
宗教 | ヒンドゥー教 |
ダマージー・ラーオ・ガーイクワード(Damaji Rao Gaekwad, 生年不詳 - 1768年8月18日)は、西インドのグジャラート地方、ガーイクワード家の当主(在位:1732年 - 1768年)。
生涯
[編集]ピラージー・ラーオ・ガーイクワードは領土拡大を目指していたが、1732年5月にムガル帝国の武将アバイ・シングとの戦いで死亡してしまった[1]。
後を継いだピラージー・ラーオの息子ダマージー・ラーオは、1734年にヴァドーダラーのムガル帝国軍を追い払い、この地を自身の拠点とした[2]。
その後、ダマージー・ラーオはムガル帝国の軍勢と戦い続けて領土を広げ、1757年にはマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオとともに帝国の州都アフマダーバードを陥落させた[3]。これにより、マラーターによるグジャラート征服は完了し、この地方はガーイクワード家と王国で二分された[3]。
その頃、アフガニスタンのドゥッラーニー朝の勢力が帝国領にたびたび侵入し、ダマージー・ラーオも他のマラーター勢力とともにこれに対抗した[2]。だが、1761年1月14日、マラーター同盟軍はパーニーパトの地で大敗北を喫し、戦いに参加していたダマージー・ラーオは辛くも逃げ延びた(第三次パーニーパトの戦い)[2]。
1768年8月18日、ダマージー・ラーオは死亡し、息子のサヤージー・ラーオ・ガーイクワードが当主位を継承した[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。