コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ドゥッラーニー朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドゥッラーニー朝د درانیانو واکمني)は、18世紀アフガニスタンにあった成立した王朝1747年アフマド・シャーイランアフシャール朝から自立して興した。ただし「ドゥッラーニー朝」の呼称が指し示す範囲についてはいくつかの定義がある。

アフマド・シャーはパシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合サドーザイ部族の出身であった。狭義のドゥッラーニー朝(1747年 - 1826年)は、アフマド・シャーとその子孫の王朝(サドーザイ朝)・国家(ドゥッラーニー帝国)を指す。

ドゥッラーニー部族連合による王朝という意味では、サドーザイ朝(1747年 - 1826年)と、続くバーラクザイ朝1826年 - 1973年)をあわせてドゥッラーニー朝という。

名称

[編集]

「ドゥッラーニー」はパシュトゥーン語で「真珠の時代」を意味する。

1747年から1973年までの王朝について「ドゥッラーニー朝+バーラクザーイー朝」、「ドゥッラーニー朝(サドーザイ朝)+ドゥッラーニー朝(バーラクザイ朝)」、「サドーザイ朝+バーラクザイ朝」という3つの名称が鼎立している状況である。

王朝名 できごと 国名(国号)
ドゥッラーニー朝
(広義)
ドゥッラーニー朝(狭義)=サドーザイ朝 1747年 ドゥッラーニー部族連合サドーザイ部族のアフマド・シャーがアフガンのシャーに推戴される。 ドゥッラーニー帝国
(アフガン帝国)
バーラクザイ朝
(広義)
バーラクザイ朝(狭義)
=ムハンマドザイ朝
1826年 ドゥッラーニー部族連合バーラクザイ部族のドースト・ムハンマド・ハーンがカーブルでハーンを称する。 アフガニスタン首長国
 (Emirate of Afghanistan
1835年 ドースト・ムハンマド・ハーンが君主号をハーンからアミールに変更。
1926年 アマーヌッラー・ハーンが君主号をアミールからシャー(王)に変更。 アフガニスタン王国
ムサーヒバーン朝 1929年 王家の分枝ムサーヒバーン家のムハンマド・ナーディル・シャーがシャー(王)となる。
1973年 王政が終了する

歴史

[編集]
ドゥッラーニー朝の版図(紫)

サドーザイ朝

[編集]

1747年イラン系遊牧民パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族連合の一派ポーパルザイ部族(Popalzai)のサドーザイ部族アフシャール朝から独立して建国。

ジュンガル部を完全に制圧すると中国と国境を接するようになり、清の皇帝から朝貢を要求される。以後清の朝貢国となる。またこの時代はインド征服も盛んに行い、弱体化したムガル帝国にも何度も侵攻し、一時期デリーを領有した。

外交面では好戦的な一面も見せたが、周辺の遊牧国家とは親善を図った。

バーラクザイ朝

[編集]

1826年に王家が分裂し、分家が本家を滅ぼす形で王朝が交代し、バーラクザイ朝が創始される。

歴代のシャー

[編集]

サドーザイ朝

[編集]

1819年以降は、事実上カーブルのみの支配者。

バーラクザイ朝君主についてはバーラクザイ朝を参照。

系図

[編集]
 
 
 
 
 
アフマド・シャー1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ティムール・シャー2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ザマーン・シャー3
 
マフムード・シャー4,6
 
シュジャー・シャー5,9
 
アリー・シャー7
 
アイユーブ・シャー8
 

参考文献

[編集]
  • 杉山正明 『モンゴルが世界史を覆す』 日本経済新聞社〈日経ビジネス文庫〉、2006年3月、ISBN 4-532-19325-7杉山正明は、「最後の遊牧王国」と称している。