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チェリク (オングト部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

チェリク(モンゴル語: Čelig,? - ?)とは、モンゴル帝国に仕えた武将の一人。チャガタイ家に仕えて陝西・四川方面の進出に大きな功績を残したアンチュルの息子で、その地位を継承した。『元史』における漢字表記は徹理(chèlǐ)・車里(chēlǐ)など。

概要

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チェリクはアンチュルの10人の息子の長男として生まれ、早くから父の軍務に携わっていた。1258年(丁巳)、チェリクは元帥に任じられ、都元帥のネウリンに従って四川地方の中心都市成都の攻略[1]に加わった。成都では南宋の将軍姚徳が雲頂山を守っていたが、チェリクは磨下の軍勢を率いてこれを打ち破り、成都の包囲を進めた。その後、南宋の将軍劉整は配下の武将を派遣してモンゴル軍を攻撃させたがチェリクはこれを打ち破り、敗走した南宋軍を追って簡州にまで至った。そこでチェリクは敵将を切り、300人あまりを殺して簡州城を陥落させた。

さらに重慶攻めでは、チェリクは1千の兵を率いて先鋒を務め、馬湖江を渡って南宋軍を馬老山に破り、100人あまりを捕虜とした。1258年(戊午)、四川方面のモンゴル諸軍が灰山に駐屯していた時、南宋軍はモンゴル軍の陣営に夜襲をかけてきたが、チェリクはこれを迎え撃って勝利をおさめ、首級は300にものぼった。

1265年(中統元年)、モンケが急死しクビライが即位を宜言すると、クビライを支持したアンチュル・チェリク父子はそれぞれ征行元帥・アウルク元帥に任じられ、その後アンチュルが老齢を理由に引退すると、チェリクは父の地位も継いで征行元帥となった[2]。しかし、1265年(至元2年)にチェリクは病にかかって職務を行うことができなくなり、チャガタイ家出身で大元ウルスの西北方面の防備を任せられていたアジキの命令によってチェリクの息子ボロト・カダが父の地位を受け継ぐこととなった[3][4]

オングト部アンチュル家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻129伝列伝16紐璘伝「丁巳歳、憲宗命将兵万人略地、自利州下白水、過大獲山、出梁山軍直抵夔門」
  2. ^ 松田1993,36-37頁
  3. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「子十人、徹理・国宝最知名。徹理襲職為元帥。丁巳、従父攻瀘州、降宋将劉整。宋将姚徳壁雲頂山、戊午、大軍囲之。徹理率部兵由水門先登、破其壁、徳降。後以病廃、卒」
  4. ^ 『元史』巻132列伝19歩魯合荅伝,「歩魯合荅、蒙古弘吉剌氏。……父車里、襲職。従都元帥紐璘攻成都、宋将劉整以重兵守雲頂山、車里撃敗之、進囲其城、整遣裨校出戦、敗走、追至簡州斬之、殺三百餘人、遂抜其城。攻重慶、車里将兵千人為先鋒、渡馬湖江、敗宋兵于馬老山、俘獲百餘人。戊午、諸軍還屯灰山、宋兵夜来劫営、車里撃敗之、斬首三百級。世祖即位、賜金符、為奥魯元帥、又改征行元帥。至元二年、車里以老疾、不任事、諸王阿只吉命歩魯合荅代領其軍」

参考文献

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  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (上)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1992年
  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (下)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1993年
  • 元史』巻121列伝8
  • 元史』巻132列伝19