チェルニゴフ諸公会議 (1206年)
チェルニゴフ諸公会議(チェルニゴフしょこうかいぎ、ロシア語: Черниговский съезд)は、1206年に現在のウクライナ北部にあたるチェルニゴフ(ウクライナ語:チェルニーヒウ)で開催された[1]、ルーシの諸公会議の1つである。また、チェルニゴフ・オレグ家(ru)による会議としては史料上の最後のものである。
ラヴレンチー年代記によれば、1206年、チェルニゴフ公フセヴォロド、ノヴゴロド・セヴェルスキー公ウラジーミルらオレグ家諸公によって会議が開催された[1]。会議によって、オレグ家諸公によるガーリチへの遠征が決定した。同年、遠征軍はガーリチへ進軍を開始し、スモレンスク公ムスチスラフら(スモレンスク・ロスチスラフ家(ru)諸公)、ならびに多数のポロヴェツ族がこれに加わった[1]。
会議の前後
[編集]ガーリチ・ヴォルィーニ年代記によれば、ガーリチでは、ヴォルィーニ公ロマン(ヴォルィーニ・イジャスラフ家(ru)から分かれたガーリチ・ロマン家(ru)始祖。)が1201年にガーリチ公位にも就いていた[2](以降、両公国を併せガーリチ・ヴォルィーニ公国となる)。ロマンは没するまでチェルニゴフ・オレグ家、スモレンスク・ロスチスラフ家のリューリクやそれと共闘するポロヴェツ族と権力闘争を繰り広げていた。例えば、リューリクらは1201年、1205年にガーリチを攻めるが攻略は成しえていなかった[3]。
ロマンは1205年に没し、ダニール、ヴァシリコの二子が残されていたが、2人はまだ幼かった(ガーリチ・ヴォルィーニ年代記によれば1205年に4歳と2歳[4])。また、ロマンの前のガーリチ公ヤロスラフ(ガーリチ・ロスチスラフ家(ru)。ガーリチ公位:1153年 - 1187年)の娘エフロシニヤは、チェルニゴフ・オレグ家のノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリの妻となっていた。
1206年のオレグ家諸公の遠征に対して、ガーリチ側にはロマンの息子らを支援するハンガリー王アンドラーシュ2世の軍勢が配備された。また、遠征軍側にはポーランド王国のクラクフ公レシェク1世が加担し、軍を発しヴォルィーニに対陣した。この遠征による直接的な軍事衝突や戦果は双方には挙がらず、和平が結ばれたが、その後、コルミリチチ家のウラジスラフ(ru)らのガーリチの貴族(ボヤーレ)が公位にオレグ家諸公を招聘したため、以降の一時期、ガーリチ(ガーリチ公国)、ヴォルィーニ(ヴォルィーニ公国)、ペレムィシュリ(ペレムィシュリ公国)、ズヴェニゴロド(ズヴェニゴロド公国)などのガーリチ・ヴォルィーニ公国の各地、すなわちロマンの遺領の諸公位を、前述のイーゴリとエフロシニヤの子である兄弟たちが占めることとなった[注 1]。
脚注
[編集]注釈
出典
- ^ a b c 中沢ほか 2019b, p. 238.
- ^ 中沢ほか 2019b, p. 231.
- ^ ЛАВРЕНТЬЕВСКАЯ ЛЕТОПИСЬ
- ^ 中沢ほか 2019b, p. 235.
- ^ Войтович2000.
参考文献
[編集]- 中沢敦夫, 今村栄一「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(10) : 『ガーリチ・ヴォルィ二年代記』(1201~1229年)」『富山大学人文学部紀要』第70巻、富山大学人文学部、2019年2月、225-325頁、CRID 1390290699794647552、doi:10.15099/00020138、hdl:10110/00020138、ISSN 03865975。
- Войтович Л. 3.7. ОЛЬГОВИЧІ. ЧЕРНІГІВСЬКІ І СІВЕРСЬКІ КНЯЗІ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.