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ノート:チェルニゴフ諸公会議 (1206年)

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初版記事名の()について[編集]

初版作成時点で、単独記事はロシア語版などにもないようですが(ru:Съезды русских князей#Черниговское княжествоの「В 1180…」の段落として記述はあります)、日本語文献[1]で1180年にもチェルニゴフで諸公会議が行われていることを確認したので()がついております。ご了承ください。--ノフノフ会話2023年4月29日 (土) 02:20 (UTC)[返信]

  • こんにちは。一文説明を加えてみました。いかがでしょうか。なお、おそらく、会議の具体的な内容(誰が何と発言したのか、など)は、史料上にないのではないかと思います(参考文献に挙げた、 『イパーチイ年代記』翻訳と注釈 (10) …、のp238の脚注36を参照して述べております)。無論、現存する全ての史料のどこにも書かれてないという証明は私にはできないのですが。
また、節名を変えてみました(節そのものを変えたので、テンプレートも張り替えてみました。)。会議そのものを説明するだけなら、この「会議の前後」節はいらないのですが、なぜこの1206年に攻めようと決めたのか、結果はどうなったのか、という説明として、当記事の中にこういう内容の記述があってもいいのではないかと思います。
なお、そうすると、会議そのものの解説は、実質冒頭部分の2段落のみということになるわけで、独立記事のめやすとしてそれはどうなのだ、ということになるかもしれませんが、ルーシの諸公会議の具体例とか、ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争内の用語の説明として、この記事は存在してもいいのではないかと思います。--ノフノフ会話2023年5月2日 (火) 13:52 (UTC)[返信]
  1. ^ 中沢敦夫ら 『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(7)―『キエフ年代記集成』(1172 ~ 1180 年)、P263