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チャンパーサック王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チャンパーサック王国
ຈຳປາສັກ
ラーンサーン王朝 1713年 - 1904年 フランス領インドシナ
チャンパーサック王国の国旗
(国旗)
チャンパーサック王国の位置
1750年のインドシナ半島の勢力分布図
公用語 ラーオ語
首都 チャンパーサック
国王
1713年 - 1737年 ノーカサット
1900年 - 1904年チャオ・ニュイ
変遷
建国 1713年
滅亡1904年
現在ラオスの旗 ラオス

チャンパーサック王国(チャンパーサックおうこく、ラオ語: ຈຳປາສັກ, ラテン文字転写: Champasak)は、現在のラオス南部で18世紀から20世紀にかけて存在していた歴史上の王国。現在のチャンパーサック県を中心とした地域を統治していた。

概要

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チャンパーサックの地は、古代はチャム族の建てたチャンパ王国の領域であったと推定される[1]が、その後は長年にわたってラーンサーン王朝の支配下にあった。

1694年にラーンサーン王スリニャ・ウォンサー英語版が死去する[2]と、首都ヴィエンチャンでは王位継承争いが生じたため、王女スマンカラーオランダ語版[要出典]3,000人の臣下と共にメコン川を下って逃れ[1]チャンパーサック在住の高僧であったニョート・ケーオの保護を受けた。これに対し、ラーンサーン王のムアン・チャン英語版はニョート・ケーオ一派の武力排除で対抗しようとしたが、ラーンサーン王朝の弱体化を狙うアユタヤサンペット9世の計略もあって、ニョート・ケーオが[要出典]1713年[3]にチャンパーサックの分離を宣言する事態にいたった。これが、チャンパーサック王国の起源である。[要出典]

独立宣言後、国王にスマンカラーの長女であるノーカサット英語版(シーサムット)が即位し、1737年のノーカサットの死後は長男のサイニャ・クマーン英語版が王位を継承した。この間、王国は平和が堅持され、その勢力は徐々に拡大されていった。だが、1779年トンブリー王朝タークシンヴィエンチャン王国ルアンパバーン王国に侵攻・制圧すると、チャンパーサックにも軍勢を派遣してきたため、チャンパーサックは他の二国と同様にシャムの属領となった。

1782年にシャムでラーマ1世チャクリー王朝を樹立すると、チャンパーサック王国はシャムから大幅な自治権を認められるようになった。

1791年、王国ではモン族のシェン・ケーオによる反乱が起き、その最中にサイニャ・クマーンが死亡したが、この反乱はシャム軍により鎮圧された。[要出典]

バーン・シンターに駐屯していたチャオ・ファイ・ナー英語版が反乱鎮圧の功を認められ、王位に就いた。その後、1813年にサイニャ・クマーンの甥のチャオ・マー・ノーイ英語版が王位に就いた。

チャオ・マー・ノーイと副王タンマキッティカの間で権力闘争が勃発したが、シャムによる副王解任で大きな被害はなく混乱は収まった。[要出典]


1815年超能力者を自称する僧オン・サーが、住民を扇動してチャンパーサックの王都を占拠するという事件が発生した。[要出典]

チャオ・マー・ノーイはこの事件がきっかけで逃亡したバンコクで死去し、1819年にヴィエンチャン王チャオ・アヌウォン(セーターティラート3世)の子であるチャオ・ヨー英語版が新しく国王に就いた。チャオ・ヨーは城壁の修復や税制改革などで敏腕を発揮し、名君と謳われたが、1827年に父のアヌウォンが起こしたアヌ戦争[4]に賛同して挙兵したため、タイによって逮捕され、バンコクの獄中で死亡した。

1828年、シャムはアヌウォンの逮捕に功績があったチャオ・フィ英語版を王位に就かせたが、シャムの直接支配下に置かれ[4]、これ以降チャンサーパック王は毎年入貢を課されるようになった。チャオ・フィの死後、同じく逮捕に功績のあった弟のチャオ・ナーク英語版が王位についた。

チャオ・フィ治下の1837年にチャンパーサックは大火事に見舞われたため、王都をバーン・ヒートホート郊外に転移させた。その後、コティタムトーン英語版治下の1863年に再び遷都が行われ、メコン川西岸、ポーンポックラコーン寺の間に移された。この時の遷都により作られた都が、今日のチャンパーサックの基礎となっている。[要出典]

1893年、ラオスをめぐってタイとフランスとの間で仏泰戦争英語版が起こると、フランス軍はタイ軍を圧倒し、仏泰条約に基づいてチャンパーサックの宗主権を獲得した。その後、フランスは1899年にチャンパーサック王国をフランス領インドシナ連邦に正式に編入し[5][6]、1904年以降のチャンパーサックは直轄植民地という位置づけがなされた。それに伴い、チャンパーサック王家は王としての数多くの特権を奪われた上で、フランス領チャンパーサック県の知事として任命されることとなり、王だったチャオ・ニュイがラーチャナダイ英語版と称して職務に就いた(在任:1904年 - 1934年1941年 - 1945年)。

その後のチャンパーサック

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タイ・フランス領インドシナ紛争の結果、チャンパーサックは1941年にメコン川西岸をタイに割譲された[7][8]。また、1945年には明号作戦を発動させた日本軍が進駐してフランスの行政機構を解体し[9][10][11]仏印処理)、ラオス王国の独立宣言[12][13]後は日本軍の司政下に置かれた。だが、第二次世界大戦終結後は再びフランス領となり、タイに割譲された領地も元に戻った。

1945年のラーチャナダイの死後、ルアンパバーン王国を中心に統一ラオスを形成する流れの中で、チャンパーサック家英語版の請求権者であるブン・ウム(家督:1945年 - 1980年)の処遇が問題となった。そこでフランスとルアンパバーン国王シーサワーンウォンは、ブン・ウムに統一ラオスの終身王国総監の地位を与えることでその傘下に組み込んだ。

チャンパーサック家の現在の当主は、ケーオ・ナー・チャンパーサック(家督:1980年 - 現在)である。

歴代君主

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出典

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  1. ^ a b チャンパサック王国」『世界大百科事典 第2版』https://kotobank.jp/word/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF%E7%8E%8B%E5%9B%BDコトバンクより2020年7月10日閲覧 
  2. ^ レイ・タン・コイ 2000, p. 117
  3. ^ 飯島明子; 石井米雄; 伊東利勝「上座仏教世界」『東南アジア史 I 大陸部』、156頁。 
  4. ^ a b 飯島明子「植民地化の「ラオス」」『東南アジア史 I 大陸部』、347-348頁。 
  5. ^ 飯島明子「植民地化の「ラオス」」『東南アジア史 I 大陸部』、354頁。 
  6. ^ 桜井由躬雄「植民地化のベトナム」『東南アジア史 I 大陸部』、311頁。 
  7. ^ 飯島明子「植民地化の「ラオス」」『東南アジア史 I 大陸部』、360頁。 
  8. ^ 村嶋英治「タイ近代国家の形成」『東南アジア史 I 大陸部』、432頁。 
  9. ^ 「日本占領下の東南アジア」『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』162頁
  10. ^ レイ・タン・コイ 2000, p. 173
  11. ^ 桜井由躬雄「植民地化のベトナム」『東南アジア史 I 大陸部』、336頁。 
  12. ^ 飯島明子「植民地化の「ラオス」」『東南アジア史 I 大陸部』、362頁。 
  13. ^ 「日本占領下の東南アジア」『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』163頁

参考書籍

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  • 石井米雄桜井由躬雄編 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504 
  • 桐山昇栗原浩英根本敬編 編『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』有斐閣〈世界に出会う各国=地域史〉、2003年9月30日。ISBN 978-4641121928 
  • レイ・タン・コイベトナム語版 著、石澤良昭 訳『東南アジア史』(増補新版)白水社文庫クセジュ〉、2000年4月30日。ISBN 978-4560058268