チャールズ・ステュアート (第4代トラクエア伯爵)
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第4代トラクエア伯爵チャールズ・ステュアート(英語: Charles Stewart, 4th Earl of Traquair PC、1659年 – 1741年6月13日)は、スコットランド貴族。
生涯
[編集]第2代トラクエア伯爵ジョン・ステュアートと2人目の妻アン・セトン(Anne Seton、1634年9月30日 – 1686年2月23日以降、第3代ウィントン伯爵ジョージ・セトンの娘)の息子として、1659年に生まれた[1]。
1673年頃に兄ウィリアムが死去すると、トラクエア伯爵の爵位を継承した[2]。1685年に審査法による審査を免除され、1686年と1687年から1688年までスコットランド枢密院の枢密顧問官を務めた[2]。また、1688年には商務委員会の委員を務めた[2]。
1708年にフランスによるイギリス侵攻計画が浮上したとき、フランスの計画に加担したとして逮捕され、ロンドンで大法官の初代クーパー男爵ウィリアム・クーパー、南部担当国務大臣の第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサー、北部担当国務大臣のヘンリー・ボイルによる取り調べののち保釈された[2]。
1741年6月13日にトラクエアで死去、息子チャールズが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1694年1月9日以降、メアリー・マクスウェル(Mary Maxwell、1671年頃 – 1759年9月22日、第4代ニスデール伯爵ロバート・マクスウェルの娘)と結婚、4男13女をもうけた[2]。
- ルーシー(1695年2月18日 – 1768年4月12日)
- アン(1696年3月6日 – 1755年4月5日)
- チャールズ(1697年 – 1764年) - 第5代トラクエア伯爵
- ウィリアム(1698年2月27日 – 1764年以前)
- ジョン(1699年 – 1779年) - 第6代トラクエア伯爵
- エリザベス(1700年2月12日 – 1706年以前)
- ウィニフレド(Winifred、1701年6月7日 – ?)
- メアリー(1702年8月11日 – 1773年2月4日) - ジョン・ドラモンド(1680年頃 – 1757年10月27日、名目上の第5代パース公爵)と結婚
- イザベル(1703年5月7日 – ?)
- ジーン(1703年5月7日 – ?)
- キャサリン(1705年3月4日 – 1765年6月16日) - 1732年6月27日、マクスウェル卿ウィリアム・マクスウェル(1773年3月6日没、第5代ニスデール伯爵ウィリアム・マクスウェルの息子)と結婚、子供あり
- エリザベス(1706年8月5日 – ?)
- ヘンリエッタ(1707年9月15日 – ?)
- バーバラ(1708年9月3日 – 1794年11月15日)
- マーガレット(1708年9月3日 – 1791年4月4日)
- ロバート(1710年2月9日 – ?)
- ルイーサ(1711年10月27日 – ?)
出典
[編集]- ^ a b Cokayne, George Edward, ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). Vol. 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 422–423.
- ^ a b c d e "Traquair, Earl of (S, 1633 - 1861)". Cracroft's Peerage (英語). 16 January 2004. 2019年11月10日閲覧。
スコットランドの爵位 | ||
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