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ヘンリー・ボイル (初代カールトン男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゴドフリー・ネラーによる肖像画、1703年作。

初代カールトン男爵ヘンリー・ボイル英語: Henry Boyle, 1st Baron Carleton PC PC (Ire)1669年7月12日1725年3月31日)は、アイルランド王国出身のイギリスの政治家。

生涯

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第3代ダンガーヴァン子爵チャールズ・ボイルと1人目の妻ジェーン・シーモア(第2代サマセット公爵ウィリアム・シーモアの娘)の息子として[1]、1669年7月12日に生まれた[2]ウェストミンスター・スクールで教育を受けた後、1685年から1688年まで海外を旅し[2]、1692年11月9日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1693年にM.A.の学位を修得した[3]

1685年にコルネット英語版として従軍した後、1688年の名誉革命ではオラニエ公ウィレム3世を支持、翌年にはタムワース選挙区英語版庶民院議員に当選したが、1690年に再選に失敗した[2]。その後は再当選の望みがなかったためアイルランド庶民院英語版に転じ、1692年にコーク・カウンティ選挙区英語版で当選、同年末にはイングランド庶民院でもケンブリッジ大学選挙区英語版で議員に返り咲いた[2]。以降数年間議会でホイッグ党の一員として経験を積んだ後、1699年から1702年まで下級大蔵卿を、1701年から1708年4月まで財務大臣を、1708年2月から1710年まで北部担当国務大臣を務めた[2]1705年イングランド総選挙ではケンブリッジ大学選挙区英語版に鞍替えし、1710年まで議員を務めた[1]。また、1701年3月27日にイングランドの枢密顧問官に任命され、1706年にスコットランド王国との合同条約英語版交渉におけるイングランド代表を務め[1]、1704年から1715年までウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監英語版ヨークシャー副提督英語版アイルランド大蔵卿英語版を務めた[2]

1710年にトーリー党が政権を握ると引退、1713年イギリス総選挙でも立候補を拒否したが、1714年のジョージ1世即位に伴いホイッグ党が復権すると[2]、同年9月30日にアイルランドの枢密顧問官英語版に任命され、10月9日にカールトン男爵に叙された[1]。ジョージ1世の治世初期にタウンゼンド子爵ロバート・ウォルポールに味方したが[2]、後にサンダーランド派として1721年6月25日から1725年に死去するまで枢密院議長を務めた[1]。直後にサンダーランド伯爵が死去すると、閣内で孤立したが、最終的には和解してウォルポール=タウンゼンド内閣の枢密院議長に留まった[2]

1725年3月14日にカールトン・ハウスで死去、31日に埋葬された[1]。生涯未婚で後継者がなかったため、カールトン男爵の爵位は断絶した[1]

人物

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イギリス庶民院議長リチャード・オンズローはカールトン男爵の能力を称えたものの、私生活については「豪奢すぎる」(too luxurious)と評した[2]。D・W・ヘイトン(D. W. Hayton)は『英国下院史』への寄稿で「安穏を好んだため、最も熱い戦場ではたびたび戦うことを嫌がった」と評し、1709年以降は実入りさえよければ補佐的な役割に甘んじたとし、この性格上の欠点がなければ一時は予想された「偉大さ」が確実なものになるだろうとした[2]

系譜図

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系譜図
 
 
 
 
 
 
リチャード・ボイル
初代コーク伯爵
初代ダンガーヴァン子爵
(1566-1643)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リチャード・ボイル
初代バーリントン伯爵
第2代コーク伯爵
第2代ダンガーヴァン子爵
(1612-1698)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チャールズ・ボイル
第3代ダンガーヴァン子爵
(1639-1694)
 
 
 
 
リチャード・ボイル
(1640年代-1665)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チャールズ・ボイル
第2代バーリントン伯爵
第3代コーク伯爵
第4代ダンガーヴァン子爵
(1660-1704)
 
 
 
 
ヘンリー・ボイル
初代カールトン男爵
(1669-1725)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リチャード・ボイル
第3代バーリントン伯爵
第4代コーク伯爵
第5代ダンガーヴァン子爵
(1694-1753)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

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  1. ^ a b c d e f g Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 26–27.
  2. ^ a b c d e f g h i j k Hayton, D. W. (2002). "BOYLE, Hon. Henry (1669-1725), of Carleton House, Pall Mall, Westminster". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年6月16日閲覧
  3. ^ "Boyle, the Hon. Henry. (BL692-)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
アイルランド議会
先代
ジャスティン・マッカーシー英語版
サー・リチャード・ネイグル英語版
庶民院英語版議員(コーク・カウンティ選挙区英語版選出)
1692年 – 1695年
同職:セント・ジョン・ブロドリック英語版
次代
サー・セント・ジョン・ブロドリック英語版
トマス・ブロドリック英語版
イングランド議会 (en
先代
ヘンリー・シドニー
サー・ヘンリー・ゴー英語版
庶民院議員(タムワース選挙区英語版選出)
1689年 – 1690年
同職:サー・ヘンリー・ゴー英語版
次代
マイケル・ビッダルフ
サー・ヘンリー・ゴー英語版
先代
サー・ロバート・ソーヤー英語版
エドワード・フィンチ英語版
庶民院議員(ケンブリッジ大学選挙区英語版選出)
1692年 – 1705年
同職:エドワード・フィンチ英語版 1692年 – 1695年
ジョージ・オックセンデン英語版 1695年 – 1698年
アンソニー・ハモンド英語版 1698年 – 1701年
アイザック・ニュートン 1701年 – 1702年
アーサー・アンズリー英語版 1702年 – 1705年
次代
アーサー・アンズリー英語版
ディクシー・ウィンザー
先代
アンソニー・ボウヤー
特権及び選挙委員会議長
1694年 – 1695年
次代
ジョン・ホーレス英語版
先代
サー・ウォルター・クラージス準男爵英語版
サー・トマス・クロス英語版
庶民院議員(ウェストミンスター選挙区英語版選出)
1705年 – 1707年
同職:サー・ヘンリー・コルト準男爵英語版
次代
グレートブリテン議会
グレートブリテン議会英語版
先代
イングランド議会
庶民院議員(ウェストミンスター選挙区英語版選出)
1707年 – 1710年
同職:サー・ヘンリー・コルト準男爵英語版 1707年 – 1708年
トマス・メドリーコット英語版 1708年 – 1710年
次代
トマス・メドリーコット英語版
サー・トマス・クロス英語版
公職
先代
バーリントン伯爵
アイルランド大蔵卿英語版
1704年 – 1715年
次代
バーリントン伯爵
先代
ジョン・スミス
財務大臣
1701年 – 1708年
次代
ジョン・スミス
先代
ロバート・ハーレー
北部担当国務大臣
1708年 – 1710年
次代
ヘンリー・シンジョン
先代
タウンゼンド子爵
枢密院議長
1721年 – 1725年
次代
デヴォンシャー公爵
名誉職
先代
バーリントン伯爵
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監英語版
1704年 – 1715年
次代
バーリントン伯爵
ヨークシャー副提督英語版
1704年 – 1715年
ノース・ライディング・オブ・ヨークシャー首席治安判事英語版
1704年 – 1715年
グレートブリテンの爵位
新設 カールトン男爵
1714年 – 1725年
断絶