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ティグレ人民解放戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エチオピアの政党
ティグレ人民解放戦線
ህዝባዊ ወያነ ሓርነት ትግራይ
党首(議長) デブレトシオン・ゲブレマイケル
副議長 フェトルワーク・ゲブレグツィアファー
成立年月日 1975年2月18日
本部所在地 メケレ
党員・党友数
100000人
政治的思想・立場 ティグレ・ナショナリズム
革命的民主主義
連邦主義
左派ナショナリズム
過去:
共産主義
マルクス・レーニン主義
ホッジャ主義
機関紙 ウェイン
党旗
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ティグレ人民解放戦線(ティグレじんみんかいほうせんせん)は、エチオピアティグライ人を主体とした政党である。

党名

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  • 英語表記はTigrayan People's Liberation Frontで、TPLFと略す。
  • エチオピアではウォヤネ(Woyane)という通称がよく用いられる。

党史

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エチオピアがまだ帝政であった1970年代初頭、ティグレ族の革命家により結成された反政府勢力ティグレ民族機構(TNO)が前身。TNOは地下活動を行い、アムハラ族中心の帝政に対し、プロパガンダなどを通じた反政府活動を実施した。1973年から1974年にかけて東部のオガデン地方のソマリ族の反政府闘争、および干ばつによる10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバデモ騒乱が発生すると、TNOはティグレ族の反政府活動の中心的役割を果たすようになった。1974年9月には陸軍の反乱が起こり、皇帝ハイレ・セラシエ1世が廃位されたが、今度はメンギスツ・ハイレ・マリアム率いる軍事独裁政治が始まり、TNOは再び反政府活動を開始した。1975年2月、政治・軍事的に勢力を拡大したTNOは、ティグレ人民解放戦線(TPLF)へと改組し、より広範な反政府活動を行なうようになった。

TPLFはエリトリア人民解放戦線(EPLF、現在の民主正義人民戦線)などと共に、メンギスツ政権に対する反政府活動を続けた。エチオピア人民民主運動(EPDM)と共闘し、ウォロやゴンダルなどの地域を支配下に収めた。1983年には、アルバニア労働党に同調したより急進的なグループがTPLF内にティグレ・マルクス・レーニン主義連盟(MLLT)を結成し、TPLFの主導権を握った。これに伴い、ティグリニャ語での組織名にウォヤネを冠した。これは1943年のティグレ族によるウォヤネの反乱を意識して付けられたものである。

TPLF中央委員会と政治局の決定に従い、TPLFは4つの地域機構に分割された。うち3つはエチオピアのティグレ族地域、1つは在外ティグレ族の組織となり、それらの頂点にTPLF中央が存在するように改組された。在外ティグレ族の組織は更にスーダン中東欧州北米の4支部へと細分化された。

1989年オロモ人民民主機構(OPDO)、アムハラ民族民主運動(ANDM)、南エチオピア人民民主戦線(SEPDF)の3党とともに、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を結成した。1991年にメンギスツ率いるエチオピア労働者党の独裁政権を崩壊させ、政権の座に就いた。また、同年にアルバニアの労働党政権が崩壊したのに伴い、TPLFは党是からマルクス・レーニン主義を削除し、MLLTを廃止した。EPRDF結成時から一貫してTPLFの議長(党首)職にあったメレス・ゼナウィが同年から1995年まで暫定大統領、以降は新憲法のもとで2012年に死去するまで連邦政府の首相を務め、その後任となったハイレマリアム・デサレン時代もTPLFはEPRDF内の主導的立場にあった。

1992年以来、TPLFはエチオピア北部のティグレ州の政権を一貫して担い続けている。2005年8月に実施されたティグレ州議会選挙では、定数152議席の全てをTPLFが獲得した。

2019年12月、首相のアビィ・アハメドによって繁栄党がEPRDFの後身として結成されるも、EPRDFに参加していた4党のうちTPLFのみこれに参加しなかった[1]

エチオピア政府軍との交戦

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2020年11月、エチオピア政府はTPLFが政府軍の基地を攻撃したとして開戦を宣言[2]。空爆を含めた攻撃を開始した[3]。また、TPLFはアビィ首相と友好的な関係にあるエリトリアがエチオピア政府軍を支援しているとも主張しており[4]、エリトリアの首都アスマラの空港を攻撃した[5]。同年11月22日、エチオピア政府側はティグレ人民解放戦線に降伏するよう最終通告を実施。同年11月26日、通告期限が切れたとして州都メケレに対して攻勢を開始した[6]。政府軍はメケレの制圧を宣言したものの、散発的な戦闘が続いたほか、指導者らは逃亡先から指示を出し徹底抗戦を続けた[7]

2021年、TPLFは反攻に乗り出し、同年7月にはティグレ州の大半を奪還したと主張した。エチオピア政府は同年7月4日に停戦を宣言したが、TPLF側は一方的な宣言であるとして一蹴。自分たちを正当な政府であると認めるよう要求するとともに、隣国のエリトリア軍の撤退を求めた[8](当初エリトリア軍の介入は秘匿されていたが、同年3月にエチオピアが認めている[9])。

同年8月、TPLFは撤退するエチオピア軍を追撃する形でティグレ州から南のアムハラ州へ移動。州都ラリベラを占領した[10]。さらにTPLFは隣接するオロミア州を拠点とするオロモ解放軍と連携しながら、首都アディスアベバへの攻撃も示唆した。エチオピア政府は11月2日、国家非常事態を宣言した[11]。11月5日にはティグレ人民解放戦線をはじめとする9つの反政府勢力が連合したことが発表された[12]

2022年3月に人道援助受け入れを理由に一時は停戦状態になったが、同年8月から再び戦闘が再開[13]。その後、同年10月末にはAUの仲介に基づき南アフリカ共和国で、TPLFとエチオピア政府が和平交渉を行なわれ、同年11月2日には停戦の調印が行われた[14]

脚注

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  1. ^ The new political party of Ethiopia’s Abiy holds much promise but faces significant hurdles”. Quartz Africa. Quartz (13 December 2019). 2020年11月19日閲覧。
  2. ^ エチオピア、戦闘で数百人死亡=関係筋”. ロイター (2020年11月10日). 2020年11月13日閲覧。
  3. ^ エチオピア北部の紛争地で多数の市民虐殺か アムネスティ”. CNN (2020年11月13日). 2020年11月13日閲覧。
  4. ^ エチオピア政府軍、北部で1都市制圧 隣国エリトリアも関与か”. ロイター (2020年11月16日). 2020年11月24日閲覧。
  5. ^ “エチオピア戦闘、隣国に飛び火 エリトリア首都に攻撃”. 日本経済新聞. (2020年11月16日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66270010W0A111C2FF1000/ 2020年11月19日閲覧。 
  6. ^ エチオピア首相、北部勢力への「最終」攻勢を命令”. AFPBB (2020年11月27日). 2020年11月26日閲覧。
  7. ^ “エチオピア政府軍「制圧」宣言後も戦闘続く 北部ティグレ州率いるTPLFは徹底抗戦”. 東京新聞. (2020年12月27日). https://www.tokyo-np.co.jp/article/76974 2021年6月21日閲覧。 
  8. ^ エチオピアの反政府勢力、「正当な政府と認めよ」停戦条件として要求”. BBC (2021年7月5日). 2021年10月13日閲覧。
  9. ^ エチオピア・ティグレから撤退を G7、エリトリア軍に要求”. AFPBB NEWS (2021年4月2日). 2021年10月13日閲覧。
  10. ^ エチオピアの反政府勢力、世界遺産の町アムハラ州ラリベラを占領”. BBC (2021年8月6日). 2021年10月13日閲覧。
  11. ^ エチオピアが非常事態宣言 内戦緊迫、市民に自衛呼びかけ”. 毎日新聞 (2021年11月3日). 2021年11月3日閲覧。
  12. ^ 米、自国民にエチオピア退避勧告 反政府9勢力が連合”. AFPBB (2021年11月6日). 2021年11月7日閲覧。
  13. ^ 政府軍が「兵糧攻め」 520万人に人道危機 エチオピア内戦2年”. 毎日新聞 (2022年11月2日). 2022年11月2日閲覧。
  14. ^ エチオピア内戦、双方が停戦で合意 「新たな夜明けの始まり」”. AFP (2022年11月2日). 2022年11月2日閲覧。