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テンプル騎士団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テンプル騎士修道会から転送)
テンプル騎士団の紋章
一頭の馬に跨る二人の騎士は、清貧の精神及び騎士にして修道士という二重性を表現している。

テンプル騎士団(テンプルきしだん)は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(: Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。

十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は第1回十字軍の終了後の1119年であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。

概要

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テンプル騎士団は、構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第1次十字軍が得た「聖地エルサレムの防衛」に主要な役割を果たした。

特筆すべき点として、騎士団が保有する資産(構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など)の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。

ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は、聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の策略によって壊滅状態となり、1312年の教皇庁による異端裁判で正式に解体された。

組織構造

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テンプル騎士団の旗

テンプル騎士団は正統な修道会であったため、会憲と会則を保持していた。会の発足時には改革シトー会の創立者で当時の欧州キリスト教界で強い影響力を持っていたクレルヴォーのベルナルドゥスの支援を受け、ベルナルドゥス自身が会憲の執筆を行ったことで知られる。テンプル騎士団は各国に管区長(マスター)とよばれる地区責任者がおり、騎士団全体を統括するのが総長(グランド・マスター)であった。総長の任期は終身で、東方における軍事活動と西方における会の資産管理のどちらにも責任を負っていた。

テンプル騎士団は以下の4つのグループから構成されていた。

  • 騎士 - 重装備、貴族出身
  • 従士 - 軽装備、平民出身
  • 修道士 - 資産管理
  • 司祭 - 霊的指導

通常、1人の騎士には10人ほどの従士がついていた。 さらに一部の修道士は資産管理業務を専門としていた。テンプル騎士団は十字軍従軍者の資産を預かる業務も行っていたが、あくまで主目的は戦闘にあった。

テンプル騎士団は入会者や各地の信徒から寄進を受けることで資産を増やしたが、その資産を用いて聖地や中東地域に多くの要塞を配置し、武装した騎士を常駐させた。テンプル騎士団のユニフォームは白い長衣の上に赤い十字架のマークをつけたもので、テンプル騎士団を描いた絵でもよく見られる。

騎士団の入会儀式では、入会への意志の固さが問われ、秘密儀式が行われていた。入会式の全容が秘密とされたことが後に騎士団を異端として告発するにあたって利用された。しかし秘密儀式といっても、実際には通常の騎士団のような誓いや、修道会のような清貧・貞潔・従順の誓いを立てていたにすぎなかった。上級騎士たちは決して降伏しないことを誓い、戦死こそが天国の保障であると考えていたとされる。このような戦士としての士気の高さ、熱心に行われた鍛錬と十分な装備などがあいまって中世最強の騎士団と呼ばれるほどになった。

歴史

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創設と初期の活動

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アル=アクサー・モスク
テンプル騎士団初期の本部、エルサレムの神殿の丘にある。元の神殿の遺構の上にたてられたため、十字軍はその神殿を「ソロモン王のエルサレム神殿」と呼んだ。「テンプル騎士団」の名はこの「神殿(temple)」から取られた

テンプル騎士団の歴史は第1回十字軍の成功にさかのぼる。第1回十字軍は聖地の占領に成功したものの、十字軍参加者の殆どは聖地奪還に満足して帰国してしまい、中東地域に残されたキリスト教勢力(十字軍国家)は慢性的な兵力不足に直面した。この事に憂慮して聖地の守護を唱えたフランスの貴族、ユーグ・ド・パイヤン英語版のもとに9人の騎士たちが集まり、聖地への巡礼者を保護するという目的で活動を開始し、すでに活動していた聖ヨハネ騎士団修道会の例にならって聖アウグスチノ修道会の会則を守って生活するという誓いを立てた。エルサレム王国ボードゥアン2世は彼らの宿舎の用地として神殿の丘を与えた。神殿の丘にはもともとソロモン王のつくったエルサレム神殿があったという伝承があった。このことから会の名称「テンプル騎士団」が生まれることになる。

ユーグ・ド・パイヤンは、自分たちのグループもヨハネ騎士団のような騎士修道会として認可されたいと願い、当時の宗教界の大物であったクレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを依頼した。ベルナルドゥスの尽力の甲斐あって1128年1月13日、フランスのトロアで行われた教会会議において、教皇ホノリウス2世はテンプル騎士団を騎士修道会として認可した。当時のヨーロッパ貴族の間では聖地維持のためになんらかの貢献をしたいという意見が多かったため、テンプル騎士団はフランス王をはじめ多くの王侯貴族の寄進を得て入会者も増えた。1139年に教皇インノケンティウス2世がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与したことが、その勢力を拡大する契機となった。

テンプル騎士団は1147年第2回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団にパリ郊外の広大な土地を寄贈した。ここにテンプル騎士団の西欧における拠点が建設された。この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦に近いもので、教皇や外国君主がフランスを訪れる際には宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。1163年には教皇アレクサンデル3世が自らの選出に際し、尽力したテンプル騎士団に報いる形で回勅 Omne Datum Optium を出して、修道会と財産の聖座による保護、司教からの独立などの特権を賦与した。

テンプル騎士団の騎士たちの強さと勇敢さは伝説的なものであった。特に1177年モンジザールの戦いサラーフッディーン率いるイスラーム軍を撃退し、フランスのフィリップ2世イングランドリチャード1世(獅子心王)とも共闘した。イベリア半島でも対ムスリム勢力戦に従事して、その勇名を不動のものとした。

しかし、数々の特権を受けて肥大化していく騎士団に対し、地域の司教たちやほかの修道会からの批判の声が聞かれるようになった。それだけでなく、後述するように一切の課税を免除され、自前の艦隊まで有して商業活動や金融活動を行っていた騎士団は、商人や製造業者たちの敵意を受けるようになっていった。

財務機関としての発達

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軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔が、財務機関としてのものであった。第1回の十字軍は参加者自身が資金を集めていたが、全財産を売り払う者もいたために物価下落を招いたという非難があった。このために第2回以降は教会が遠征費の調達をすることになり、テンプル騎士団が資金の管理に関わるようになった。12世紀中頃になると、ヨーロッパで預託した金を、エルサレムでテンプル騎士団から受け取れるようになった。危険がともなう現金輸送よりも便利であり、巡礼者から国王にいたるまで幅広く利用された[1]。もともと入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。会の活動目的が聖地守護と軍事活動であっても、実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。巡礼者に対しては、現金を持って移動するリスクを防ぐため、自己宛為替手形(lettre de change)の発行等の銀行機関のようなサービスも行った。また現在で言う預金通帳のような書類(bon de dépôt)もテンプル騎士団の革新的発明だと言われている。

1187年の十字軍の惨敗も、金融業務の拡大に結びついた。軍事力のみでは聖地の回復は困難と判断したテンプル騎士団は、所領経営を開始する。所領は管区とコマンドリーに分かれており、管区はヨーロッパに10から13、西アジアに3があった。管区の下部組織にあたる所領の最小単位がコマンドリーで、修道院・聖堂・農地で形成されており農地の生産物を貨幣化した。金融業務ではイタリア商人との取引が増え、13世紀中頃にはシャンパーニュの大市を期日としていた[2]。このように多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。パリにあった支部はフランス王国の非公式な国庫といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する経済援助を行っている。1146年にはルイ7世の命により王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられ、この体制はフィリップ4世の統治時代(後述)まで続く事となる。

聖地の喪失

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1187年ハッティンの戦い。十字軍は聖地エルサレムを失い、これが転換点となった

テンプル騎士団の経済的な発展とは裏腹に、1187年までに中東情勢は悪化の一途をたどっていた。当時の総長ジェラール・ド・リデフォール英語版は宿敵サラーフッディーンとの数次にわたる戦いに敗北するだけでなく、自らが捕虜となるという致命的な失態を演じた。これは投降よりは死を選ぶという騎士団の勇名に泥を塗ることになった。ジェラールは一度は解放されたが、再び捕虜となって斬首されたため、ヨーロッパでのテンプル騎士団の威信は落ちた。

1291年レヴァントにおける最後の十字軍国家であったエルサレム王国のアッコンマムルーク朝スルタンアシュラフ・ハリールにより陥落すると、キリスト勢力は完全に聖地周辺の足がかりを失うことになった。軍事活動がなくなっては存続できない他の騎士団が存亡をかけて新たな目標を見つけていく[注釈 1]中で、特権と財産に守られていたテンプル騎士団には危機感がなく、スペインでのムスリム勢力との小競り合いを除けば、ほとんどすべての軍事活動を停止するようになっていた。

騎士団の壊滅

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テンプル騎士団の破滅は突如として訪れた。13世紀の終わり、中央集権化をすすめていたフランス王フィリップ4世(美男王)は財政面で幾度も騎士団の援助を受けていたにもかかわらず、自らの新しいアイデアに夢中になっていた。それは当時もっとも勢力のあった2つの騎士団、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を合併し、自らがその指導者の座について聖地を再征服。その後、自分の子孫にその座を継承していくことで自らの一族が何世代にわたって全ヨーロッパにおよぶ強大な影響力を及ぼす、という夢であった。

しかし、現実にはフランスは慢性的な財政難にあえいでいた。フィリップ4世は腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって、1296年に教皇庁への献金を禁止し、通貨改鋳をおこなった。さらに1306年にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出た。こうしてまとまった資産を手にしたフィリップ4世が次に目をつけたのが裕福なテンプル騎士団であった。

上記の説とは別に、当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。そのため、フィリップ4世は債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画したともいわれる[3]

いずれの動機であれ、まず手始めにフィリップは聖ヨハネ騎士団との合併をテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案したが、これは即座に拒絶された。そこで王はどのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討したが、そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に持ち込むことは難しい。そこで、匿名の証言を採用できる「異端審問方式」を用いることで有罪に持ち込もうと考えた。異端審問を行うには教皇庁の認可が必要であるが、当時の教皇はフランス王の意のままに動くフランス人クレメンス5世であり、何の問題もなかった。こうしてテンプル騎士団を入会儀式における男色ソドミー)行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴することになった。

火刑に処される騎士団員

1307年10月13日[注釈 2]、フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行った。異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定された[注釈 3]。裁判では、拷問によって自白した内容を覆した場合、求刑された終身刑やより苦痛の少ない処刑を、異端として火あぶりの刑に変更すると脅され、多くの被告は自白を覆さず刑に甘んじた[4]

さらに1312年、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いたヴィエンヌ公会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定、フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知したが、効果はなかった[注釈 4]。たとえばポルトガルでは国王が逮捕を拒否し、「キリスト騎士団」という名前での存続が認められた。カスティーリャアラゴンでもテンプル騎士団に対する弾圧は一切行われなかった。ドイツキプロス島では、裁判までは行われたが証拠不十分で無罪の判決が下された。また、教皇庁と対立していたロバート1世の治めるスコットランドはそもそも教皇の決定など意に介していなかったので、同地でも騎士団は弾圧を免れた。

資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために1314年、投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。ジャック・ド・モレーら最高指導者たちはシテ島の刑場で生きたまま火あぶりにされた。

名誉回復

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テンプル騎士団については、19世紀に至るまで彼らの異端という汚名は晴らされることがなく、無批判に受け入れられていた。しかし1813年にフランスのレイヌアールが初めてこれに疑義を呈した。最終的に1907年にドイツの歴史学者ハインリヒ・フィンケが「彼らの罪状は事実無根で、フィリップ4世が資産狙いで壊滅させた」ことを明らかにした。

現代のカトリック教会の公式見解では、テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったとしている。また、ヴィエンヌ公会議で教皇がテンプル騎士団の禁止を決定したことも、当時の社会からの批判に流されたものであったと結論づけている。2007年10月12日ローマ教皇庁は、テンプル騎士団の裁判資料である『テンプル騎士団弾劾の過程』(Processus Contra Templarios )を公開・頒布した [1]

金融業務・会計

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テンプル騎士団は、12世紀から13世紀にかけて国際金融業務を行なった。初期から櫃型の金庫に金を保管し、騎士団による安全管理が信用を呼んで顧客を集めた。預かったものは貨幣以外に宝石、貴重品、証書類もあった。こうしたいわゆる預金業務(depots reguliers)に加え、寄託された資産の運用( depots irreguliers )も行うようになり、業務が拡大した。depots irreguliersはフランス王室の財政に取り入れられて役人たちもテンプル騎士団に口座を開設し、イングランドやスペインのテンプル騎士団も口座の管理を行ない、ローマ教皇も法王庁の口座を開設した。高い信用を得た騎士団は、顧客間の契約の保証人となったり、口座振替を利用した定期振込なども行なった[5]

テンプル騎士団がイタリア商人と行った取引は、イタリア海港都市が内陸に進出するための手段でもあった。ジェノヴァヴェネツィアなどの都市国家は内陸での組織網は持っていなかったため、ヨーロッパ内陸と西アジアで活動するテンプル騎士団が協力をした。イタリア商人は十字軍への貸付も行い、テンプル騎士団はイタリア商人と十字軍の仲介役となった。イタリアへの支払い期日はシャンパーニュの大市の市日、支払い場所はパリとして十字軍に貸付された。こうして現金移送のリスクを回避し、為替取引の利潤と利子を得ることを意図していた[6]

現存するテンプル騎士団の会計帳簿は、縦33センチ・横11.5センチの羊皮紙が8枚あり、ラテン語で記帳された現金日記帳である。多種類の帳簿があったとされ、現在確認されているのは11種類ある。(1) 王の帳簿(王への振込)、(2) 大きな帳簿(主要な顧客)、(3) 新しい小さな帳簿(主要顧客に準ずる特定の顧客)、(4) 古い小さな帳簿、(5) 債務者の帳簿(顧客の債権債務)、(6) 兄弟達の大きな帳簿(フランス各地のコマンドリーからパリへの振込記録)、(7) 皮革で覆われた帳簿(コマンドリーへの振込)、(8) 古い帳簿(特定の金融業務)、(9) 兄弟達の小さな帳簿(パリのテンプルへの振込)、(10) 抵当に関する小さな帳簿、(11) 遅れた振込の参照記録である。多数の帳簿が必要とされた理由としては、資産運用( depots irreguliers )の状況を多数の顧客に通知する際に効率がよかったためと推測される。各口座の抜粋は年3回作成されて顧客に送られ、帳簿の内容は定期的に監査された[注釈 5][8]

テンプル騎士団の伝説

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イギリスロンドンにあるテンプル教会

テンプル騎士団にまつわる伝説は多い。伝説の多くはテンプル騎士団の最初の本部が置かれたエルサレム神殿とのつながりから生まれたものである。代表的なのが、彼らはエルサレム神殿の跡地から聖杯を、あるいは聖櫃を、あるいはイエスが架けられた十字架を発見したなどというものである。

また、多くの団体が自らの出自をテンプル騎士団と結びつけることで、その神秘性を高めようとしてきた歴史もある。著名なものはフリーメイソンで、彼らは19世紀に入ってから神殿の図が入った紋章を使い始め、自らのルーツをテンプル騎士団と結び付けようとした。代表的な伝説は、騎士団がロバート・ブルース支配下のスコットランドで存続したというもので、ここからスコットランド儀礼のフリーメーソン団やフランスを中心とするジャコバイト系フリーメーソン団、諸々のオカルト系フリーメーソン団が生まれた。現在も『ダ・ヴィンチ・コード』など多くのフィクション作品において、テンプル騎士団の神秘的なイメージは利用されつづけている。

テンプル騎士団歴代総長(1118年 - 1314年)

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代数順
名前
綴り(fr)
在任期間
順-01 ユーグ・ド・パイヤン Hughes de Payens 1118 - 1136
順-02 ロベール・ド・クラオン Robert de Craon 1136 - 1146
順-03 エバラール・デ・バレス Everard des Barres 1146 - 1149
順-04 ベルナール・ド・トレムレ Bernard de Tremelay 1149 - 1153
順-05 アンドレ・ド・モンバール André de Montbard 1153 - 1156
順-06 ベルトラン・ド・ブランシュフォール Bertrand de Blanchefort 1156 - 1169
順-07 フィリップ・ド・ミリー Philippe de Milly 1169 - 1171
順-08 オドー・ド・サンタマン Odo de St Amand 1171 - 1179
順-09 アルノー・ド・トロージュ Arnaud de Toroge 1179 - 1184
順-010 ジェラール・ド・リドフォール Gérard de Ridefort 1185 - 1189
順-011 ロベール・ド・サブレ Robert de Sablé 1191 - 1193
順-012 ジルベール・オラル Gilbert Horal 1193 - 1200
順-013 フィリップ・ド・プレシス Phillipe de Plessis 1201 - 1208
順-014 ギヨーム・ド・シャルトル Guillaume de Chartres 1209 - 1219
順-015 ペドロ・デ・モンタギュー Pedro de Montaigu 1219 - 1230
順-016 アルマン・ド・ペリゴール Armand de Périgord 1232 - 1244
順-017 リシャール・ド・ビュレ Richard de Bures 1245 - 1247
順-018 ギヨーム・ド・ソナク Guillaume de Sonnac 1247 - 1250
順-019 ルノー・ド・ヴィシエ Renaud de Vichiers 1250 - 1256
順-020 トマ・ベラール Thomas Bérard 1256 - 1273
順-021 ギヨーム・ド・ボージュー Guillaume de Beaujeu 1273 - 1291
順-022 ティボー・ゴーダン Thibaud Gaudin 1291 - 1292
順-023 ジャック・ド・モレー Jacques de Molay 1292 - 1314

騎士団ゆかりの地

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テンプル騎士団を扱った作品

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モデルとしたものも含む。

実在のテンプル騎士団を扱った作品

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テンプル騎士団をモデルとした団体が登場する作品

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未分類

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出典・脚注

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注釈

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  1. ^ 聖ヨハネ騎士団は、ロードス島を根拠地としてのイスラム国家の船舶に対する海賊行為。ドイツ騎士団は、ポーランド王の依頼に基づくプロイセンのキリスト教化。
  2. ^ この日が金曜日だったため、以後「13日の金曜日は不吉である」というジンクスが生まれたともいわれる。
  3. ^ 資産を聖ヨハネ騎士団に移すという決定はあくまでも表向きのもので、フランス国内のほとんどの資産は王の手に渡った。
  4. ^ 公会議そのものでも、フランス寄りの枢機卿以外はみなこの決定に激しく抗議したが、教皇の権威をたてに押し切った。
  5. ^ テンプル騎士団の口座の管理は人名勘定記録に類似しているが、目的は顧客に口座状況を伝えるためである点が異なる。抜粋を顧客に送るというシステムは、当時のイタリアには存在しない[7]

出典

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  1. ^ 三光寺 2011, p. 27.
  2. ^ 三光寺 2011, p. 27-28.
  3. ^ Majogari. Morishima, Tsuneo, 1903-, 森島, 恒雄, 1903-. 岩波書店. (1970). ISBN 4004130204. OCLC 672488508. https://www.worldcat.org/oclc/672488508 
  4. ^ ジョーンズ 2021, pp. 406.
  5. ^ 三光寺 2011, pp. 30–33.
  6. ^ 三光寺 2011, pp. 142–143.
  7. ^ 三光寺 2011, p. 149-150.
  8. ^ 三光寺 2011, pp. 33–43.

参考文献

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  • 森島恒雄 『魔女狩り』 岩波書店 〈岩波新書〉1970年
  • レジーヌ・ペルヌー 『テンプル騎士団』  橋口倫介訳、白水社文庫クセジュ〉、1977年
  • レジーヌ・ペルヌー 『テンプル騎士団の謎』 池上俊一監修、南条郁子訳、創元社「知の再発見」双書〉、2002年
  • 橋口倫介 『十字軍騎士団』 講談社講談社学術文庫〉1994年
  • M・ベイジェント、R・リー 『テンプル騎士団とフリーメーソン』 林和彦訳、三交社、2006年
  • Gilles C. H. Nullens 『正統と異端 第二巻:テンプル騎士団とヨハネ騎士団』 高橋健訳、無頼出版、2007年
  • 佐藤賢一 『テンプル騎士団』 集英社集英社新書〉2018年
  • 三光寺由実子『中世フランス会計史 - 13‐14世紀会計帳簿の実証的研究』同文舘出版、2011年。 
  • ダン・ジョーンズ 『テンプル騎士団全史』 ダコスタ吉村花子訳、河出書房新社、2021年

関連項目

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