デイヴィッド・カーネギー (1772年生の実業家)
デイヴィッド・カーネギー(英語: David Carnegie the Elder、スウェーデン語: David Carnegie den äldre、1772年1月8日 チャールトン – 1837年1月10日 ヨーテボリ)は、スウェーデンで活躍した、スコットランド出身の貿易業者。カーネギー投資銀行の前身にあたる貿易会社D・カーネギー社(D. Carnegie & co.)を創設したことで知られる[1]。
生涯
[編集]ジョージ・カーネギー(1726年 – 1799年)と妻スーザン(Susan、旧姓スコット(Scott)、1821年4月14日没、デイヴィッド・スコットの長女)の息子として[2]、1772年1月8日にスコットランドのチャールトン(Charleton)で生まれた[1]。父はジャコバイトとして1745年ジャコバイト蜂起に参加した後、スウェーデンに逃亡してヨーテボリで20年ほど商人を務め、1767年ごろに帰国したという経歴を持つ人物であり、デイヴィッドは父の帰国後に本国で生まれた子供だった[2]。
1786年にヨーテボリに送られ、父の会社で商人としての教育を受けた[1]。1787年から1792年まで在ヨーテボリイギリス領事トマス・アースキンの秘書を務めた後、1793年にジョン・ホールから雇われて会計士になった[1]。1807年にホールが破産したとき、会計報告の不足や法律違反でホールから訴えられたが、有罪判決を受けることはなかった[1]。
1799年にアースキンが爵位を継承して第9代ケリー伯爵になり、帰国することになったため、カーネギーは父の貿易会社を引き継ぎ、1801年にヨーテボリで商業活動を行うための市民権を取得、1803年には簿記係のヤン・ランベリ(Jan Lamberg)を共同経営者として招き入れ、社名をD・カーネギー社(D. Carnegie & co.、現カーネギー投資銀行)に変更した[1]。以降D・カーネギー社はヴェルムランド地方での土地購入、同業他社の買収など事業拡大を続け、カーネギーの存命中にはヴェルムランドから産出する木材や鉄を輸出し、イギリス、フランス、アメリカなどからワイン、肉、塩など多くの品物を輸入する、スウェーデンでも外国でも有名な会社になった[1]。
1836年にランベリが死去すると、娘の夫デイヴィッド・カーネギーを共同経営者として招いた[1]。1837年1月10日、ヨーテボリで死去した[1]。遺産は約95万リクスダーラーに上った[1]。
家族
[編集]1801年にアン・クリスチャン・ベックマン(Anne Christian Beckman)と結婚、1女をもうけた[2]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j "Carnegie, David, d. ä.". Svenska män och kvinnor (スウェーデン語). Vol. 2. Stockholm: Albert Bonniers Förlag. 1944. p. 43.
- ^ a b c d Paul, James Balfour, Sir, ed. (1911). The Scots Peerage (英語). Vol. VIII. Edinburgh: David Douglas. pp. 81–83.
- ^ "Carnegie, David, d. y.". Svenska män och kvinnor (スウェーデン語). Vol. 2. Stockholm: Albert Bonniers Förlag. 1944. p. 43.